ミニマリストになれない人から学ぶ、ちょっと素敵なこと【ローマでちょっとグレタさん生活】

わたしたち家族が住んでいるマンションは、ローマの北側、至って普通の住宅密集エリアにある。
夫の話によると、1940年代に建てられたものらしい。
ヨーロッパではごくごくメジャーなセントラルヒーティング搭載のマンションはお湯を流して建物全体を暖めるシステムなのだが、今年の冬にスイッチを入れる際、そのお湯を沸かす給湯器があまりにも老朽化して全く機能しなくなり、2週間ほど「ここはヒマラヤですか?」と思いながら過ごすことを強いられたほどの物件である。
そりゃあそうだ、八十路だもの。
むしろ、何も起こらないほうがおかしいのかもしれない。

そんなover 80の我が家には、夫の父の叔母が2人で住んでいた。
10,000kmも離れた日の出ずる国で、核家族に生まれ育ったわたしにとっては「夫の父の叔母=ほぼ他人同然」なのだが、何せここは家族の絆の固さが井村屋のあずきバーのそれに匹敵する国、イタリアである。
ということで、夫ももれなく小さい頃からやれクリスマスだ、やれ誕生日だ、やれ毎週木曜日だ、やれ偶然ちょっとこの近くまで来たから…とこの家を何度となく訪れてはおり、それなりに親しみを持っていたらしい。

その後〇▲§◇年が経過し、かくかくしかじかあらゆる事情で夫がこの家に住むことになった(そしてその結果わたしが転がり込むことになり、娘が誕生することになった)のだが、夫は引っ越す前にあまりの家具の多さ、時代遅れも甚だしい電気回路、などなどいろいろな面で大きな壁に直面することとなり、最終的にまずは建築士の父にリフォーム図面を依頼し、助っ人として母方の叔父2人をノコギリ、ドリル、ありとあらゆる工具全般と共に引っ張り出して来て、その叔父が連れて来た友人・知人をも巻き込みながら、どうにかこのご時世でも暮らせる家へと変身させた。

しかし、1900年代前半、あらゆるものが貴重であった戦時中に生を授かった夫の父の叔母2人は当然のことながら、今となっては絶滅危惧種に近い「上質なものを丁寧に使う」人たちであった。
夫はここに引っ越す際にかなりのものを処分したのだが、それでもわたしがやってきたときには夫がどうしていいかわからず放置していた家具はもちろんのこと、サービスルーム(っていうのかしら、今の日本では?)や地下のカンテナ(それとも「トランクルーム」のほうが正しいのかしら?)にも、それはそれはたくさんのものが「21世紀になった今でも健全に使用可能」な状態で残されており、わたしはただならぬものを感じた。
そんなわけで我が家は現在でも、今となっては「アンティーク」と言われても差し支えなさそうなものが相当な数、並んでいる。

@ベッドルーム、手前のものも、その隣の大きなものも、奥のチョコレートみたいなものも、
揃って夫の父の叔母たちが使っていたもの

わたしはむかーしむかし、夫と出会うずっと前に「とにかくいろいろ手放さなければならない」と思いながら日々を生きていた時期があり(その話はまたいつか、追って綴ることがあるかもしれない)、それからは常にスーツケースに収まる程度のものしか持たないように細心の注意を払い、その気になればいつ、どこへでも行けるような状態を維持するように心がけていた。
もちろん、家具なんて備え付けのクローゼットでもスペースが余るくらいだったし、仕事でPCを使うときのテーブルだって本気で必要がないと思っていたくらいだった。
従って、家具があふれている夫の家へやって来た当初はときどき本当に胸が詰まりそうだったし、勝手にお邪魔した分際で「この家具の数は、どうにかならないものでしょうか」と夫に問い詰めていたくらいだった。

@リビング、左の棚も、真ん中のダイニングセットも、右のキャビネットとランプも
やっぱり夫の父の叔母たちが使っていたもの
(壁は夫がペンキを塗り、床は夫が叔父&その友人とフローリングを貼った)

しかし、イタリアでは壊れたらまず最初に修理するというオプションを検討し、場合によっては今のニーズにフィットするように手を加え、アレンジをしながら昔のものをずっと大切にする文化が今も当たりまえのように残っている。
断捨離を遂行してシンプルライフ、という考えの人はあまりおらず、日本でいう「片付け本」の翻訳版を読んだところで全く琴線に引っかからなかった人をわたしも何人か知っている。
もちろん大量生産の商業主義に影響をダイレクトに受けている世代もいれば、時代の最先端を行きたい人だって存在している。
とはいえ、2,000年も前に建てられたローマ時代の遺跡が普通に残されている国の子孫だけあって、やはりその部分は徹底している人がまだまだ普通にいるのである。
それがイタリア人のアイデンティティのかなりの部分を占める「家族」に関連するものならもはや何か使命を感じる人も少なくない。
自分の好きなもの、とても愛着があるもの、自分の大切な人が使っていたものをずっとずっと何かしらの形で受け継いでいく。
自分の将来にあてはめて「わたしの思い入れがあるものをいつか娘が大切にしてくれるようになったら、わたしだってきっとうれしくて喜ばしい気持ちになるだろうな」と感じだと気に、ミニマル至上主義だったわたしも、むしろ本当は素敵なことなのではないかと思うようになった。

@玄関、フックも、上のランプも、当たりまえのように
夫の父の叔母たちが使っていたもの

というわけで、今ではわたしも少しずつそんなふうに愛着のあるものに囲まれて、愛情を持って接して、心が穏やかで満たされた気持ちになる生活を送りたいと思ってはいるのだけれど…でも、やっぱり家具の数、もうちょっと…(と濁しておしまい)。

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