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なぜかローマで野菜を育てることになった話【ローマでちょっとグレタさん生活】

わたしは、夫と出会ってローマに来るまで、限りなく自然や緑とは縁がない生活をしていた。
生まれも育ちも限りなく神奈川に近い東京の住宅地で、近くで木々に囲まれた環境といえば学校にひっそりと設けられていたスペース(確かうさぎがいた)や児童遊園(人為的にしっかり管理されていそうだった)、そうでなければ週末に両親と出かけた都内のお寺や庭園(仰々しい名前がついていた)、または特別なお休みにこれまた両親に連れて行ってもらったアスレチックや海(車での移動が必須だった)くらいしか記憶にない。
父は山を好み、母は海が大好き、そういう意味では妥協するのが無謀に思われる家庭だったため、自然にあふれた場所に行こうという発想もあまり出てこなかったのかもしれない。
そんな環境で育ったためか、わたしは木にも花にも大して興味を抱くことはなく、どうにか最後を見届けないといけない夏休みのひまわりやヘチマの観察はとても憂鬱だったし、植物を枯らす力には絶対の自信があったわたしはお花のプレゼントをもらうとその先が末恐ろしく感じるほどだった。
いつしかわたしは無意識でそういったものを避けるようになり、自分の中で「緑のある場所=自分には関係のない場所」という定義が成立した。
大学があったアメリカのフィラデルフィアも、最初のイタリア生活を送ったフィレンツェも、その後に少しだけ住んでいたフランスのリヨンも、街のはずれには大きな公園があり、少し郊外に行けばのどかな田園風景が広がっていたけれど、わたしは基本的に常にコンクリートジャングル側をベースに生きてきたし、将来もずっとそう生きていくのだろうと信じて疑わなかった。

しかし、日本とは違うヨーロッパとはいえ、一国の首都で生まれ育ったにも関わらず、夫はわたしと全く違った少年時代を過ごしていたらしい。
わたしがローマに来て間もない頃、夫はここぞとばかりに庭園、遺跡、古墳に連れて行ってくれたのだが、ポイントが一般的なローマ観光とはあまりにもかけ離れていることが多々あり、
「あれはアーモンドの花だよ」
「これは野生のルッコラだよ」
「あ、そこにフィノッキエット(ういきょうの葉)があるから摘んでいこうよ」
全く以って明後日の方向に視点が定められており、会話の中に「どうしてそんなことをご存知で?」という内容がそこそこの頻度で登場することを徐々に認識するようになった。
夫と知り合う前、既に何回かローマに来たことがあるのを伝えていたので「これはあえてのことなのかもしれない」とも考えたものの、ローマから遠く離れたイタリア半島のかかと・プーリア州の海でも、オーストリア国境にほど近いドロミテ山脈でも、夫の琴線に触れるところは一貫して
「あれは、カッペリ(ケーパー)の花だよ」
「あ、この葉っぱは野いちごだけど今の季節はどうかな、実があるかな」
「これはボッラジネ(ボリジ? ルリチシャ?)だよ、食べられるんだよ」
という発言が繰り返されるのだった。
ほんの小さな葉を見ただけで瞬時に食べられるどうか見分けられる能力はどこからやってきたのだろうか、夫が犬と互角に戦えるくらい敏感な鼻の持ち主だからだろうか、それとも出生に何か別の秘密でも隠されているのだろうか、いくつか仮定を立てたところで「人間は出身地を含め、プロフィールだけで判断できるものではない」と、それ以降深く考えるのは止めることにした。

実際のところ、ローマはイタリアはもちろんヨーロッパの中でも面積が桁違いに大きな自治体なのだそうで、中心部から車で20分も行けば余裕で「あと何分くらい歩けば第一村人に会えるかな?」と思うようなところに到達する。
我が家の近くの公園で撮った娘の写真を日本の両親に送ったところ、母からは「すごく緑がいっぱいの山ねえ、旅行にでも行ったの?」という返信があったし、我が家から一番近い大型ショッピングセンターのそばには牧場があって牛や豚、羊がストレスフリーで放し飼いにされている(…が、いつの日かお肉として敷地内にある直売所に並ぶため、一概にストレスフリーとは言えないのかもしれない)。
また、イタリアでは「お金を投資する=不動産を購入する」という考えから歴史的に海や山にセカンドハウスを持っているファミリーが多く、そういう場合は家族の誰かが何かしらの野菜を育てていたり、お庭にレモンやオレンジの木があることもよくある。

そんな環境で育った夫の夢は、マヨリカのタイルをあしらったキッチンを持つこと、そしていつか家庭菜園をやることだった。
今から3年ほど前、まだ娘が生まれる前のこと、ローマから1時間ほどのところにある小さな田舎の町で夫がマスターコースを受けていたことがあり、そこで売りに出されていた不動産物件の中に「庶民のわたしたちでもどうにか手が出せそうな金額+敷地の裏に大きな大きな土地がセットになっている」という家があることがわかり、キャリアのためにやって来た夫のやる気が別の方向へ一気にスパークした。
しかし、実際に交渉に入ったところで実はその土地が登記上の理由でそのまま農地にすることはできないことが判明し、行政書士を通して事務的な手続きをするだの、そのためには町役場から建設当時の図面を発掘してもらって認印をもらうだの、あーでもないこーでもない…のたらい回しにあっていたところ(←イタリアあるある)、厄介なことは避けてできるだけ早く金融資産に変えてしまいたかった持ち主が代理店経由である日その家をあっさり売却してしまい、夫はショックで落ち込んでしまい3日間ほど何にも手が付けられないほどだった。
その当時、わたしは表向きには夫に「がんばったね、でも、きっとしかたがないことだったんだよ」と慰めの言葉をかけながらも、実は内心ほっと安堵していたのだ。
「次から次へとトラブルが降ってきて一向に流れる気配がないことは、そのときに無理に進めるべきことではないことである」というのが、これまでに何百回も何千回も人生の遠回りをしているわたしの持論である。
そして何よりもそれ以上に、わたしには全く縁もゆかりも関係も興味もなさそうなことにエネルギーや時間やお金を費やす意味が見い出せず、ゴタゴタの状況を横目に「だったらやめちゃえばいいじゃない」としか思えなかったのだ。

(夫婦って難しいよね、こうして「価値観の違い」が大きくなっていくのよね)

こうして時は過ぎ、セカンドハウスに…と思っていた資金は綺麗さっぱりリフォームに消え、家庭菜園の話はわたしたちの中で既に消化されていた…はずだった。
少なくとも、わたしの中では。

ところが、一方の夫は…というと、そうではなかったらしい。
あと一歩で実現しそうだったのに想像していない形でご破算になっただけに、夢や人生の目標のみならず、心の中では執念に近いものとなっていたのかもしれない。
表向きには全てを封印し、珍しく「その話はしないで」と完全シャットアウトまで決め込んだ夫、実のところあきらめる気持ちなどこれっぽっちもなかったようである。
そして「願いは忘れた頃に叶う」というのはよく言ったもので、今年の5月にある団体から突然「市民農園の1区画の1/4が空いているんですけど、やってみます?」という願ってもないオファーが彼のところに舞い込んだ。
工具を使うとき以外は徹底的にベータ志向で計画性はゼロ、その日その日を穏やかにほっこり迎えられればいいタイプの夫、よくよく考えると公言したことはいつの間にか全て実現してきており、本田圭佑選手には至らないまでもそこそこ「持っている」のかもしれない。

ということで、わたしにとっては、自分の人生設計には1ミクロンも組み込まれていないはずだったことが現実のものになり、しかもそれが寝耳に水でお送りされることとなった。
まさか、わたしが「農業はじめます」っていう日が来るなんて、わたしを知っている人が聞いたら大爆笑するに違いない。
さぁ、吉と出るか凶と出るか…我が家の「ローマで半分農家ライフ」の幕開け。

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