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なぜかローマで野菜を育てることになった話・その3【ローマでちょっとグレタさん生活】

そんなこんなで、いつの間にかわたしたちの生活の一部となった、家庭菜園。

わたしの華麗なる変貌

もちろん1年目だし、趣味のレベルだし、夫もわたしも何かを栽培することは(ほぼ)未経験なので、きちんとできているのかどうか見当すらつかない。
でも、とりあえず、楽しい。
本当に楽しくて楽しくて、思わずやらないといけないことを放棄して通いたくなるくらい、楽しい。
明るく燦々と輝く太陽を浴びて、お水をぐんぐん吸収して、苗が少しずつ大きくなっているのを見ると幸せな気持ちになるし、どこかに小さな赤ちゃんの実が生まれているのがわかると、愛おしくてたまらなくなる。
元気いっぱいに生えてくる雑草を抜くのも、苗の根元のそばをそっと掘って空気を届きやすくするのも、支柱を探してきて立てるのも、苗たちがこれから健やかに育ってくれる大切な作業だと思うと丁寧に真剣にやりたくなるもので、わたしは行くと必ず「没頭モード」のスイッチが入るようになった。
イラクサの葉と水で作った液肥がどんなにすさまじい匂いをまき散らそうが、腕のTシャツ焼けが着々と進行しようが、得るものは余りある。
いつも必ず何か新しい進歩や発見があって、ときどき少し心配や不安を感じつつ、少しでもやれることをやろうと思ってしまうあたりは、なんだか娘を育てることに似ているような気がする。

ちなみに、2度目のイタリア生活 in ローマ・最初の5年間がちょっと苦しくて精神的に参っていた(が、現在進行形でどうにか克服中の)わたしは、苗を植える日、ポットから出て畝に植えられるトマトやナス、ピーマンの姿になぜか自分のこれまでのことを感傷的に重ねてしまい、知らず知らずのうちに「元気に育つんだよ」「新しいお家でもがんばるんだよ」と話しかけていたことに気が付いた。
ひょっとしたら、見る人によっては少しおかしな人間だったかもしれない。
でも、夫と娘といっしょに土を掘り返し、苗を選びながら、わたしはいつの間にかものすごく「素の状態」になっていたのだろうと思う。
わたしの過去を知っている人なら、卒倒してしまうレベルだったはずだ。
あんなに虫が苦手だったのに、あんなにどんな緑を見ても「何、それ?」という感じだったのに、大地でこれから羽ばたくキュウリやカボチャ、トウガラシが健気でたまらないと思うようになるなんて。
あんなに身なりに気を遣っていたのに、あんなに新しいことに敏感でいようとしていたのに、すっぴんで夫のTシャツを借りて自然と向きあうことに意義を感じるようになるなんて。

みんなが心地よい宝物のような空間

広大な敷地の真ん中はピクニックスペースになっていて、大きなテーブルとベンチが2セットあるため、わたしたちもよく活用させてもらっている。
朝から娘といっしょにパニーノを作ったり、市場に並びはじめたばかりのミニトマトやきゅうりをいっしょに持って行ったり、大きなバッグにいつも使っているカトラリーを準備して、古くなったパンを使って作ったパンツァネッラ(パンのサラダ)をきちんとお皿に盛りつけた日は、なんだか「きちんと暮らしている」感が漂って夫もわたしもちょっと気分が上がった。
朝、いつもより早く起きて、エスプレッソをたっぷり淹れてサーモスポットに入れて、お気に入りのパスティッチェリア(お菓子屋さん)に寄ってコルネット(イタリアのクロワッサン、基本的に甘い、フィレンツェから北では「ブリオッシュ」という人のほうが多いかもしれない)を買って、畑のそばでまださわやかな風を感じながら朝ごはんにすることもある。
いつもとは違う環境だから、どんなものだってもっと美味しく感じられるのだけれど、中でもわたしたちが一番お気に入りの過ごしかたは、何といってもアペリティーボ(晩ごはんの前に、おつまみといっしょにちょっとしたお酒を楽しむこと)。

クーラーボックスに冷やしておいたビールやソーダを入れて、タッパーにはたくさんのオリーブやカットしたチーズ、タラッリ(南イタリアでよく作られるクラッカーみたいなスナック)を詰めて…ポテトチップスやミックスナッツを持って行くこともあるし、子ども用のジュースも欠かせない。
そして、娘をnido(保育園…というか「幼稚園前の学校」といったほうが正しい)にお迎えに行ってから、そのままいっしょにファミリー農園にやって来てみんなでちょっとした作業をすることもあれば、ボールで遊んだりハーブを摘んだりすることもある。
そして、昼のギラギラとした明るさが少し落ちついた頃にみんなでおしゃべりしながら乾杯する。
それだけ。
でも、これが何ともいえないほど満ち足りた時間になる。
冷蔵庫や引き出しにありあわせのものを準備しただけなのに、ただ場所を変えただけなのに、特別で代わりが効かないくらい幸せなひとときなのだ。
これがわかった今では、夫の家族や親戚、娘のお友達ファミリーをお誘いすることも多くなった。
イタリアでも(一応)都会のローマだけあってどのお家もご両親はオフィスワークの人がほとんどで、お庭のあるお家に住んでいる人はあまりいない。
だから来てくれる人はみんな、この空間をわたしたちと同じように気に入ってくれる。
こうして気心知れた人たちと時間や気持ち、思い出を共有できる場所がわたしたちに思いがけずできたことは、本当にありがたくて恵まれたことだと思う。

これから大人になる娘へ

我が家には、ベランダもバルコニーもない。
基本的に何の不自由も感じることはなく、素敵なエリアに(義理の父ががんばってくれたおかげで)マイホームがあるだけで感謝すべきではあるものの、実はベランダやバルコニーがあると暮らしの幅が格段に広がることをイタリアに来てから知った。
日本ではほぼ洗濯スペース同然に見なされているかもしれないけれど、イタリアではテーブルやサマーチェアを置いて外とのつながりを家でも楽しもうとすることが多い。
そのため、イタリアの住宅市場ではどんなに間取りが不便でも、ベランダやバルコニーがあって広さや向いている方角が理想的であれば、価格が軽くひっくり返ることもあるほど重要な要素なのだ。
それが我が家にはそもそも存在しないため、少し前まではちょっとした外の風を感じるための選択肢は必然的に「ちょっと散歩でもしてこようか」だった。
しかし、近くの公園はいつだって同じことを考えている人で満員だし、娘を遊ばせてあげたくてもブランコやすべり台の順番はなかなか回ってこないことが多かった。

ファミリー農園に来るようになってから、娘は思い切り好きなだけ、ひたすら走り回り、初めて見る花に触れて香りを感じて、いろいろな虫がそれぞれの動きで地面を進むのを見ながら、何もかもを自分の身体で五感をフル活用して受け取ることができるようになった。
「(娘が)きっと喜ぶから」と夫が植えた2株の野いちごは、彼女にとっては案の定とても思い入れのある存在になったらしい。
最近は他のものには見向きもせずに真っ先に野いちごのところに向かい、赤い実をつけているかを確認して摘んで味見をするのが娘の大切なルーティンとなり、いちごの茎や葉には優しく触れること、まだ熟していない実はそのままにしてあげること、白い可憐な花があればまた赤ちゃんいちごができること、当たりまえのようで実は当たりまえには学べないこと娘は自然と体得したようだった。
お友達が来ると自分のルーティンをいっしょにこなしながら「ここに立つんだよ」「こうやって摘むんだよ」と教えてあげられるようになったのを見ると、子どもには自分の力でしっかりと成長しようとする潜在的な力が備わっていてその可能性に感服するし、娘がこうして自発的に自分の感覚を精いっぱい使って何かを吸収できる環境を得られたことは、わたしたち家族にとってすごく意味のあることなのだ。

ある日の娘と、大の大の大の仲よしのEちゃん
9月からは別々のScuola d'Infanzia(幼稚園)に通う2人
でも、ここでいつでも会えるから、これからものびのびといっしょに遊んでね

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