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海部公子という生き方

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洋画家、陶芸家であり、「ゴッホの手紙」などの翻訳でも知られる硲伊之助。その弟子であり、硲の精神を受け継ぐ海部公子さんの人生をたどります。
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#女性の自伝

#17 海部公子という生き方

#17 海部公子という生き方

後を託すと遺言書に残した

 
 最後の2、3年は(心臓性ぜんそくで)とても苦しい時が続きました。だいたい毎年秋に一水会の公募展があるのですが、その審査をして、いったん帰ってから展覧会をしていた。だから年に二回は東京に車で行っていました。それ以外にもよく行っていたし、晩年は私たち二人が一緒に車で旅をしていましたね。(紘一さん)だから最晩年のころ、ちょっと具合悪かったんで、先生を置いて二人でゴッホ展

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#16 海部公子という生き方

#16 海部公子という生き方

「家を手放して先生の作品に変えたい」

 その頃の生活は作ることが生活の中心でした。清水喜久男さん(石川県加賀市大聖寺山田町)が窯から上がった物を持って行くと買い取ってくれました。清水さんはある日訪ねてみえて、「作品がほしい」と。当時は中日新聞が熱心にここのことを記事にしてくれていたので、それを読んで興味を持ってくれたようです。大同工業のサラリーマンで、退職後することがなくて退屈してたらしいの。そ

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#15 海部公子という生き方

#15 海部公子という生き方

ここでずっと一緒にやろう

 ここ(石川県加賀市吸坂町)での暮らしを語る上で、HさんとYさんという二人の女性の存在は欠かせません。ここでずっと一緒にやろうと思っていたんだもの。彼女たちのことは私の歴史の中で重いことなのよね。どうして彼女たちとやっていこうと思ったのか、自分でも不思議なんだけど。

 Hさんは軽井沢出身で、父親が硲先生と深い関係がありました。父親は木こりの生活でした。先生が描いた父親

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#3 海部公子という生き方

#3 海部公子という生き方

16歳で親から自立。友達とおでん屋を始めた 中野の上高田で母が薬局を開いて2年くらい経ったころでしょうか、中目黒、さらに学芸大学の近くに引っ越しました。そして私は中学校を卒業して働き始めました。神田の小さな商事会社の事務員でした。新聞広告で自分で見つけたんです。目黒高校の定時制に通いながらですが、結局、学校には10カ月しか通っていません。私の学歴はそこ止まりです。

 ところが働き始めた会社が半年

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