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人生に深刻さはいらない

他者の心配は自分への心配

「あの人が(子)が〜してしまう/〜しない
 から心配」

と言う時、本当に相手を心配している
訳ではないことが多々あります。

よくよく、その心配している
自分をのぞいてみると
相手が自分の感情を揺さぶることを
恐れていて、自分自身を心配しています。


この数ヶ月、若者からの相談が続きました。
やっぱり社会に出る前後は
自分という存在の確立をしていく時期で
日々いろいろ考え生きているのだなぁと
しみじみ思いました。


例えば、こんな内容の相談。
※内容は変えて書いています

「友人がある集団から追い出されてしまう
のではないかと心配しています。
その子が、集団から外れないように、
自分にできることをしたいと、
あらゆる機会をもとうと誘ってみました。
でも、相手からの反応がなく、
何だか怒っているように感じます。
自分は余計なお世話をしたかも
しれないと不安で仕方ないです。
どうしよう。」


また、親子関係でも
形は違えども同じような話も聞きます。

「子どもが夏休みに入り朝から
ゲーム三昧で、宿題をしているようには
思えないんです。
「宿題やった?」と聞けば「やるから。」と
言うけれど、このままでは宿題が終わらない
のでは?と心配で仕方ありません。」


どうでしょうか?

全く同状況ではないにしても、
似たような事が思い当たる人が
多いのではないでしょうか?

わたしも、分かるなあ!
と思い聞いていました。

奥底にある気持ち

先ほどの方々の話をよくよくきいてみると、
仲の良い友達が離れていくことで、
あまり人付き合いが得意ではない自分は
1人になってしまうという不安がありました。
孤独への恐れが猛烈に襲いかかり
1人になりたくない!と
相手に寄りかかっていました。
「わたしを助けて」と言わんばかりに。

お母さんの方も、宿題をしていかないと
先生に怒られて家に電話がかかってきては
「おうちで言ってください」
「見てあげてください」
と毎回自分に責任があるように
言われることが嫌で、
まだ起こってはいないけれども
自分が責められたくない!
「避けたい」「逃げたい」という気持ちが
あることがわかりました。

どちらも、切実な気持ちです。
だからこそ、相手の行動を何とかしたい
という気持ちに駆られるのでしょう。
相手が近い存在であれば、
なおさらどうにかしないと!と
思い必死になります。

被害者になる弱い自分をつくれば、相手を加害者にする

でも、これって相手にとって
問題なのでしょうか?

そうではないですよね。
だから、相手からしたら、
本当に勘弁してよ!と思われても
仕方ないようなことなんです。

ストレートに言えば
とにかく相手は問題だと思っていなくても、
勝手に問題をつくりあげて、相手に
巻き込まれてしまう自分の姿を想像して
不安になっているわけです。

冷静に考えてみるとおかしな話です。

怒りとも言える、モヤモヤを相手に向ける
ことで、自分がどっぷり寄りかからねば
不安で立てなくなるくらい深刻さを
増しているんです。

でも、こうすることで
自分の脆弱さを見ないで済むんです。


人間って、危機に直面した時、
深刻になることでどうにか切り抜けようと
被害者の立場を自らとりにいくほど
弱かったりします。
そして、悪気はなくても相手を加害者に
してしまいます。

そんなことをしても、決して
心地良くはないし、なんだか居心地が悪くて
後味が悪い感覚が消えないはずなのに
そうせざるを得ないくらい弱い自分を
必死に守っています。

自分を遠くから観る

そんな時、自分を遠くから眺めて
見てほしいのです。

どんなことを感じるでしょうか?

シンプルに「何やってるんだろう」と
我に返ることもあるでしょう。

この世に生まれ、生きてきてたくさんの
痛いことや悲しいことがあって、
「その思いをもう二度とさせまい」と
自分を必死で守ろうとしている健気な自分を
観て、なんだか切ない気持ちが込み上げくる
かもしれません。


そんな子(自分)が観えた時に
「おまえが悪い!」と言えるでしょうか?

人それぞれ感じ方はちがいますが、
わたしは自分は頑張って生きているなあと
じんわりと思うのです。

だから、もし誰かが自分のことを
傷つけるような人がいたら、
それはもう、全力で自分で自分を
守らないといけません。

一人になろうが
誰かから何か言われようが
自分と一緒に立ち上がりましょう。

自分の弱さを真正面から観る

わたしは、自分の弱さを真正面から
観た時に、ようやく
わかるものがあります。
弱い自分もいていいのだと
思うことができるのです。

そして、自分の目の前にいる相手も
そうやって生きてきた1人なのだと
実感すると、
《ただ今そうである》という事象以外の、
握りしめていた執着のような感情が
落ちていくように感じるのです。


もちろん、無理矢理に思う必要はなく
思い込んで塞ぐことの方が
ややこしくなるのは実証済みなので、
やめておいた方がいいです。

ただ、相手に文句を言っても
変わらないのだと腑に落とすことで、
そんな時間と労力を割くなんてことが
やってられなくなりますので、
そちらの方が上手くいくかもしれません。

そうは言っても、、、という
自分も自分ですので、そこから、
本当は何を自分が言いたいのか
聞いてあげるしかないですよね。


ただ、目の前にある事象をシンプルに
観ることができれば、
むやみやたらと迷うことは
なくなっていくはずです。

人生に深刻さはいりません。
弱い自分もいてもよいと受け入れてあげると
シンプルな事象が見えてきます。
まず、観てあげるのは他者ではなく自分
だと自分に留めてあげたいものですね。


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WRITER

Akiko Hagino

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