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田舎のコメ作りが持続”不”可能になりつつある話 ~カネも時間も体力も限界中~

今年のコメ作りにおいて、収穫量が弥生時代レベルという、またしても失敗に終わったことを前回の記事で書いた。

最大の原因は自分の技術不足・知識不足・体力の限界にあることは明白だ。そこには有機・無農薬という通常とは異なるアプローチならではの問題も多く含まれてもいる。
だが限界を迎えているのはコメ作り全般ではないかと、年々そんな雰囲気が地域を覆ってきているようにも感じている。今の時代にコメ作りを続けるには何か構造的な難しさがあるのではないか。

ここで話しているのは専業・大規模の農業ではなく、我が家のように共働きで家業を持ちながら、代々受け継いできた小規模な田んぼで自給分プラスαを賄う家庭農業だ。もちろん有機・無農薬とかでなく、一般に慣行と呼ばれる農家さんたちがほとんどだ。

以下のデータからはこのような農家が全体の1割程度の作付けをしている状況が見て取れる。決して少なくはない。

現実問題として、我が家の周りに多くみられるこのような田んぼの持ち主たちが、次々とコメ作りを止め始めている。

もしこのまま田んぼが減ってしまったら、この地域はどうなっていくのか。この流れをどう捉えるべきだろうか?
夫婦共働きの我が家が田んぼを続けていくことは現実的なのか。
中山間地におけるコメ作りがどこに着地していくのか、あるいは着地すればいいのかについて、少し考えてみたい。

このnoteでは筆者が岐阜県恵那市に移住して12年の農村暮らしから見えた視点をお届けしてます(所要時間7分)。


コメ作りにかかる経済的なハードル

『買った方が安上がり』

地域の人たちがコメ作りを手放す大きな要因の一つは、その経済性にある。実際、田んぼで作業してると通りがかりの人に「うちはもう田んぼやめた、買った方が安いし早い」と言われことも一度や二度ではない。

この地域で一般にみられるコメ作りにかかる費用としては、苗の委託生産費用、肥料、農薬、燃料(トラクターや田植え機、草刈り機等)、ライスセンターへの乾燥・籾摺り委託等が含まれる。単純計算だが、1反(約1000㎡)あたり10万円前後と見積もられる。
我が家は、有機農法を志しているとはいえ、苗委託、燃料、乾燥・籾摺り委託の費用はしっかりかかっている(苗を購入している時点で農薬も化学肥料も使われているので「有機・無農薬」とは言えないが、厳密なジャンル分けが必要とも思わないし、段階的にできるところから、ということで)。

一方、1反あたりの平均的な収量は500㎏前後。農協の買い取り価格で、およそ12万前後となり、一般的に我が家の規模だと、収穫を全量販売しても収支は±0が良いところだ。家庭農業の世界だと一般に人件費は考慮されない。いくら自家用とはいえ、実質的にはマイナスだ。

ちなみに現在の一人当たりのコメ消費量は年間50㎏ほどなので、こども含めた4人家族としても200㎏前後が必要量となる。金額に換算すると、5万円前後。はっきりと、コメは買った方が安い、のだ。

このようなたいした特にもならない状況で高齢者のみならず、家と田んぼを継いだ次の世代も、仕事しながらなんてやっとれん、ということで、金を払って農協や営農組合に全面委託するケースが増えてたり、場合によっては耕作放棄してしまうことも珍しくない。

もしも機械が壊れたら

そんな人たちを責めるつもりは毛頭ない。農機の維持費用も大きな負担だ。トラクターやコンバイン、田植え機から、自前で乾燥機などを揃えている人もいる。これらのメンテナンスは欠かせない。どこか壊れたら修理も必要だ。

オレも今年格安の中古で手に入れたコンバインを、早速壊した。田んぼ1周も刈らないうちに、修理代が1人分の米代を超えた。

ドナドナされるコンバイン

ある近所の方は、機械壊れたらやめるよ、と言っていたように、新調するにはちょっと勇気がいるお値段だ。中古でも数十万はくだらない。これだけペイできない状況で、それでも続けたいと思う人がどれだけいるか。

70年~80年代あたりに小さな農家でも農業機械を所有するようになって、わずか2~3代でその終焉を迎えようとしているのは、何をかいわんや。

もちろん離農が増えている背景には経済的なコストの話だけでなく、若い世代が家を離れていったり、様々な要因が重なっているので、一概には言えないが、多くの人から「田んぼはカネがかかる」との声を耳にしていて、問題の多くを占めているのは間違いない。

よく外部の方から農機を集落で共同所有すればいいのでは?と言われるが、これもなかなか難しい事情がある。順番がどうとか、誰々の使い方は、みたいな話が必ず噴出するのをみんな直観的に知っている。感情的な問題はお金では解決できず、後々までしこりを集落に残すことをみんな避けたいのだ。

共働きが有機農業をするのは現実的か

憧れの有機農業、だけど。

では、持続可能な農法として注目される有機農法ならいかがだろう。
環境循環型であることが特徴の有機農法であるが、コスト面においても毎年の肥料や農薬費用はかからないし、伝統的な技術を使えば機械に頼ることもないはずだ。乾燥は稲架かけ(はざかけ)で天日で乾かす方法がある。

いわゆる持続可能な農業を考える人たちにとって、有機農法は当たり前の選択になってきてる。
(先にも書いたが、細かくジャンル分けして自然農法と有機は違うなど、いろいろ主張される向きがあるが、ここでは化学物質に頼らない農法の総称として有機農法、有機栽培、有機農業と呼ぶ)

自分も移住して農業に関わるようになって、なるべくなら化学物質や過度な肥料分を使わずに作物を育てたいとチャレンジしてきた。

全てのコメ農家が有機農法にシフトすることが問題解決になりうるだろうか。

草、草、草

当然ながら、農薬をバラバラと投入すればきれいに雑草を抑えられる慣行農法と違い、草との闘いは避けられない。

過去数回も、草に負けて稲がほとんど実らなかった苦い経験をしてきた。今年は除草機として効果的とされている「チェーン除草」を取り入れ、「米部」として時々手伝ってくれる人たちと集まりながら作業をした。

チェーンに小さな雑草の芽を絡めとって除草する仕組み。
イネの苗は倒れてもまた起き上がってくる。

チェーンで取り残した草が大きくなると手で抜かざるを得ないが、一日で抜ける量は超がんばって1列50m。これが30列ぐらいある。暑くなってくるとどんどんペースは落ちるし、週末+朝か夕方の限られた時間の中では全く追いつかない。
米部の人たちのおかげで例年よりマシに見えたが、結局草の圧勝に終わった。

苗が大きくなってからは田車も何度か転がした。結構しんどい。
背負っているのは”せみの”。わらで編んだ日よけで、近くのコンビニで売っている。結構効果ある。

あるデータでは、コメ作りがまだ手作業の時代に、農家一人がシーズン中フル稼働で除草管理できる範囲として1.5反という数値を見たことがある。我が家の田んぼも同じぐらいなので、そもそもの問題でもある。

除草については、無農薬でもきれいに抑えている農家さんたちもいるので、田植え前の代搔き回数を増やしたり、チェーン除草の仕方を工夫するなど、改善の余地はまだまだある。
しかしそれなりにがんばったと思ったのに、いざ収量がわずかにしかならなかったときの絶望たるや。

土はかく語りき

有機農業にかかる労力は除草だけでない。今回の失敗は無肥料であったことも大きい。土づくりという点で準備が足りなかったことも明白だ。

コメを同じ田んぼで作り続ければ、田んぼの地力、つまり窒素やカリ、リンなどの養分がコメに吸収され、田んぼの外に持ち出される。そのままにしておけば勝手に窒素が増えていくことはなく、当然収支的にはマイナスとなる(厳密にいえば雨水や川水に含まれる窒素分によって微増はする)。
実際、昨年は一度コメ作りは休んでいて、土も多少は回復するかと楽観的に見ていたが、収穫したコメは典型的な窒素不足な症状を見せていて、明らかに土に力がない。

慣行農法では化学肥料を用い窒素などを投入し(粒材あるいは液体)、養分を補っているが、有機農業では、有機質、つまり発酵させた畜糞や植物などの堆肥を投入することで、地力をあげる。

牛糞堆肥。もみ殻に混ぜた状態で発酵させる。

ところが堆肥というのは、容積に比べて含まれている窒素分などが少ない。なので大量に施用する必要がある。ある試算では牛糞堆肥なら米づくりには1反あたり2tを必要とする。

動物性堆肥を避けたい場合、例えば刈った畔の草を積んで米ぬかなどと混ぜて発酵させた堆肥を自作する方法もある。
しかし植物というのは大量に集めたように見えて水分が飛べば僅かにしかならない。窒素量も動物性よりさらに少ない。そのため大量の草が必要となる。昔は山に芝刈りに行って青草を運びおろしていたと、隣のお爺さんが言っていたが、どれだけの量が必要であったのか、今から考えたら果てしないことに思える。

堆肥は窒素含有量が計算しづらいこともあり、自然資材だからといって大量に施用しすぎると、河川に流れ出た余分な窒素が水質汚染を招くとも指摘されており、万能ではない。であれば、土壌分析をもとに必要な窒素量を正確に投入できる化学肥料の方が環境的?などの考えも頭をかすめる。

ここら辺は篤農家それぞれの自家科学的な論拠でいろいろな説が飛び交っていて正解が見えづらい世界でもある。

人によっては無肥料こそ至上とする向きもある。肥料や堆肥を外部から投入することなく、自然の仕組みを利用し、空気や水中の窒素などを土中に取り込むことで栽培を可能にする、というある意味究極的な農法だ。
にわかには信じがたいが、実際に成果をあげている農家さんも近所に存在するので不可能ではないのだろう。しかしよくよく聞くと無肥料で安定的に育つまでに5年10年と時間を要するという。その過程には人の手が必要であり、他の農法同様、決して楽ではない。

当然草取りも土づくりも、あらゆる作業をこなしている農家さんもいるので無理とは言わない。収量も慣行並みの成果をあげている例もあり、うまくやればコスト面もクリアできる。

だがこれらを平日フルに夫婦共働きをしている家庭ができるかと言ったら、いかがだろう。

健康や環境、伝統の観点から有機農法はいかにも田舎の農家にフィットしそうなものに見えるが、スケールメリットのない田舎ほど超少数派であるのは、このような背景があるからだろう。

農薬や化学肥料を使うことに批判的な声も少なくないが、田舎といえど田んぼにばかり時間を費やせる人はそう多くないことも理解してもらう必要はある。

肝心なのは、「本当にやりたいんならやれるでしょ」みたいな精神論ではなく、田んぼを持ちながらも続けることが難しい人たちそれぞれの事情に合わせながら、人にも環境にも無理なく継続できる方法を探すことだと思っているので、誰もが使える技術へ昇華される必要があると感じている。

それでも田んぼを続ける、意外な理由

以上、コストの面から田舎におけるコメづくりを見てきた。こうした背景から考えると、コメづくりをあきらめたり、化学物質に頼ることを責めることはできない。
中山間地ゆえ農地の集約などリソースを集中させて大規模化を図ることも難しい。

我が家は共働きゆえに除草や土づくりに負担の大きい有機農法はハードルが高いが、多少の出費には目をつむって備蓄として考えるなら慣行農法も現実的な選択肢となろう。
だが、化学物質による土壌への影響はもちろん、外部資材への依存のリスクを考えると、これは循環的でも自立的でもない。
自分たちのコメ作りは、制約の多い自分たちにもできる範囲で環境や社会に持続可能な方法はないか、その模索・実践でもある。

今なんとかコメ作りを続けている人たちは「目の前に田んぼがあるから」という義務感に近いものが大きいようだ。
実際、この地域では30年ほど前に行われた耕地整理によって、昔ながらの棚田のような不定形の圃場が、機械化に適した形状に変更されたが、この時に農家は多額の自己負担を強いられている。

昔ながらの棚田
耕地整理した圃場

耕地整理は機械化が前提でもあり、各農家で農機を揃えたり、とにかく田んぼというものに大きな投資をしてきた。にもかかわらず、ほどなく高齢化や跡継ぎ不在という現在の状況を迎えているわけだが、今更やめるわけにいかない、というのが正直なところのようだ。

もちろん自分でこだわりのコメを作って楽しみで続けている方もいらっしゃるが、その意味では田舎のコメ作りは高貴な趣味となったと言っても過言ではない。そこまで余裕のない人たちにとってはあきらめ感が漂い、田舎のコメ作りは大きな岐路に立たされていると感じる。

小さな農家は姿を消し、田んぼは野に帰って、また違う景色を見せるようになるのだろうか。あるいは住宅へと変わっていくのだろうか。実際そのように状況は進んでいる。

しかし、だ。

先祖代々の土地とか、コメは日本人の心、といった美徳を持ち出すまでもなく、コロナ禍で流通が止まるかもしれないという予想もしていなかった局面で、本当に命を守るための食糧を自分たちで作ることがどれだけ安心であったか。先般のコメ不足であわてる姿も記憶に新しい。

小さな田んぼは食料自給率に直接影響するようなものではないだろう。しかし、田んぼを持っている家庭においては立派なセーフティーネットの役目を果たしていると思える。そんな田んぼが全国に1割近く存在していると考えると、その1割が失われることの意味は大きい。

小規模だからこそ、持続可能なコメ作りを再度考える必要がある、というのが自分の考えだ。

そのように考えていたら、一つの疑問が思い浮かんだ。

慣行農法にしろ有機農法にしろ、このしんどさは、そもそも現代の稲作が「自然に根差した営み」とは別のものとなった歪みによって生じているのではないか、ということだ。

単に収量をあげるのであれば、農業書や篤農家から学び、技術を高めることで解決できるのかもしれないが、自分たちの営みを相対的に位置づけてみること、つまり、古来からのコメづくりの変遷や、社会・文化との結びつきなどを学ぶことで、コメづくりに対する理解と納得感が深まるかもしれない。それは持続可能なコメづくりを考えることに役立つだろう。

ということでいろいろ調べたら、いろいろと興味深いことがわかったので、次回に再び書いてみたい。

まあ、ゴタクを並べるのは、一人前に収穫もできない人間がやりそうなことだという自覚はあるのだ。

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