カート・ヴォネガット 『人みな眠りて』
★★★★★+♥
ヴォネガットの未発表作品を集めた短篇集。1950年代に書かれたものなので、まだ作家としての地位を確立する前のものです。没後10年目にしておそらく最後の著作となるでしょう。蔵出しの1冊です。
ヴォネガットは自分のお父さんに「おまえの本には悪人が出てこなかったなあ」と言われたそうですが、たしかにヴォネガットの小説には真の悪人というべき人は出てきていない気がします。すべての作品に底流しているなんともいえない優しさが、ヴォネガットの魅力だと思います。
本作に収められた16篇もそうです。ひと癖もふた癖もある登場人物たちの間にいろいろなことが起きますが、嫌な読後感のものはありません。すべからく、優しい。 翻訳されているヴォネガット作品はエッセイも含めてあらかた読んでいますけど、どれも人柄のよさが滲み出てます。第二次大戦で従軍し、ドレスデンの爆撃にも遭っていることが影響しているのか、徹底したヒューマニストです。
“Love may fail,but courtesy will prevail.”という科白が『ジェイル・バード』という作品の中に出てきます。「愛は負けるかもしれないが、思いやりはなくならない=愛は負けても、好意は消えない」みたいな意味でしょうか。「愛は負けても親切は勝つ」という訳もあります。
これは戦争という悲惨な状況(中でもとりわけ凄惨なドレスデン爆撃)を経験したヴォネガットが導き出したテクニカルな教訓なのでしょう。
考えてみると、愛のために争いは起きますけど、親切心や礼儀正しさ(courtesy)のために争いが起きることはありませんよね。つまり、争いが起きないことを一番に考えるなら、大切なのは愛よりも思いやりだということです。シンプルですが、深い知見です。
本作で僕が一番好きだったのは『スロットル全開』です。鉄道模型にはまった夫と妻とお母さんの話です。特に驚くような展開があるわけではないのですが、なんだかよい気持ちになります。たぶん、同じような話はたくさんあるのでしょうが、このなんともいえないホッコリ感を出すのは難しいでしょう。もうひとつ、『年1万ドルを悠々と』も秀逸でした。オチも含めて人間に対する深い知見とあたたかな眼差しを感じます。
全編ハッピーエンドというわけではありませんが、バッドエンドはひとつもないです。すべて、そういうのもありだよな、とか、それも悪くないかもしれない、と思わせる終わり方をしています。
解説でも書かれているように、ヴォネガットの提示するモラルのあり方には救いがあるんです。それは人間の最も暗部を見たヴォネガットだからこそ、絶対に譲れない、真に提示すべきものだったのでしょう。
ヴォネガットの代表作からすると、未発表作を集めた短篇集なのでいくらか見劣りするかもしれません。けれども、ヴォネガットのタッチはしっかりと生きています。
これでお終いとは悲しいですが、没後10年経って、ヴォネガットの新刊が読めたことに感謝したいです。