一條 亜紀枝
「三日坊主日記」に三日坊主なし
あしたを照らすライター活用術
秦野から見る富士山が、いちばん好きだ。 秦野というのは、神奈川県西部のまちで、 落花生と八重桜と吉田栄作の産地で、 わたしのふるさとである。 七五三、入学式、卒業式、成人式、 引っ越しといった人生の節目には必ず、 富士山とともに写真におさまってきた。 学校の節目では、富士山を歌ってきた。 小学校でも中学校でも高校でも 校歌の2番か3番には決まって、 富士山が出てきたものだ。 「富士ヶ根」「富士」「芙蓉峰」と いろんな呼び名であったけれど。 1番ではなかったけれど。 歌
北海道・函館に「百閒」という店がある。 ちょっと変わった店名は、内田百閒からとったという。 築50年の、かつては古書店だった店舗は、書棚がそのまま残っていて、 店主の蔵書が並んでいる。 いわゆるブックカフェ&バーなのだが、それだと「百閒」らしくない。 自ら名乗っているように、「本と珈琲と酒 百閒」がしっくりくる。 どこか懐かしくて、新しい味の「昭和のナポリタン」を待つあいだ、 書棚を物色して気になる本を読む。 それは、押入れ図書室に籠って読書に耽っていた時間と似ている。
子ども時代に住んでいた家に、といっても、生まれたときから 成人しきるまで住んでいたのだが、その家には「図書室」があった。 学習机とピアノを置いた子ども部屋の押入れに、父が棚を付けたもので、 そこに本をずらりと並べていた。 押入れの引き戸はそのままだったから、閉めると外界を遮断できる。 そこに籠ってはよく本を読んでいた。 いまの家は、一部屋を本の部屋にしている。 でも、居心地も幸福感も、押入れ本棚には敵わない。 図書室のある家にずっと憧れてきた。 その図書室というのは、外
玄関からシューズクローゼットを通り抜けて、 パントリーへとつながる土間にほしいのが、洗面台である。 近年、セカンド洗面が流行っているという。 その名のとおり、洗面所とは別につくる二つ目の洗面台だ。 タンクレストイレの普及に伴って増えているという トイレの中の独立した洗面台もそのひとつだろう。 洗面所が1階にある家は、2階の階段ホールや廊下に、 あるいは家族の暮らしに合わせて玄関やダイニング、 趣味室、寝室に設置するようだ。 わたしは断然、玄関にほしい。新型コロナウイルスの
近年は土間のある家が人気らしい。 モルタルの土間は、クールなのにあたたかみがあって、 なるほどいいなと思う。 家の外と内が混ざりあったような土間は、その曖昧さが好きだ。 一般的に日本では、玄関で靴を脱ぐことになっているのに、 土足のままで家の奥へと入り込む背徳感といったら! 玄関の脇にシューズクローゼットを設け、そこから土間伝いで キッチンの隣にあるパントリーまでつながる間取りを見た。 買い物から帰って、靴を履いたまま、パントリーまで荷物を 運び入れられるのだ。すばらしき
いま、広報紙の制作中です。 ある工務店が、商談中のお客さまや家を建てたお客さまに向けて、 心地よい暮らしのヒントをテーマに発行しています。 会員向けの会報紙とフリーペーパーを合わせたようなものです。 「広報紙をつくらせる」も前回のパンフレットと同じく、 オーソドックスなライターの使い道ではないでしょうか。 社員やその家族向けの社内紙は、自社スタッフでつくるほうが いいと思います。 でも、社外向けに発行する広報紙であれば、 ライターを「社外の広報スタッフ」として活用いた
子どものころから、間取り図が好きだ。 好きが高じて、本を出版したり、建築士になったりするには 情熱が足りなかったかもしれない。 でも、いまでも間取りを見るとわくわくする。 誰がどの部屋を使おうか、どこにどんな家具を置こうかと、 いろいろと想像をめぐらせる。 最近のお気にいりは「京町家」である。 あらゆるものに心ひかれるけれど、庭がいい。 奥まったところにあって、家族と庭師だけが知っている 秘密の花園っぽさが好きだ。 通り庭もまたいい。光や風を通すための工夫らしいが、 家
かつて日記に何を書いていたのか。 いまとなっては思いだせないが、苦労した記憶はない。 学校生活では避けてとおれない読書感想文も作文も、 嫌だと思ったことは一度もない。 では、三度の飯より好きかというと、そうでもなく、 それなら読むほうが圧倒的に好きだった。 しかし、書くことは性に合っていたのだと思う。 学級新聞や壁新聞をつくる時間が好きだった。 記事を書くことだけではなく、題字や見出しの書体に凝り、 絵心はないけれどイラストや罫線にもこだわって、 ひとつの世界をつくりあげ
危うく「三日坊主日記」が三日坊主になるところであった。 難なくはじめの三日間をクリアしたので油断してしまったのかもしれない。 しかし、一週間あけずに四日目を書いているのだからセーフだろう。 験を担いで「三日坊主日記」などというマガジン名をつけてみたが、 わたしは長いこと日記をつけていた。 小学4年生のときだったか、日記を書いて提出するという宿題があったのだ。 夏休みだけではない。一年間、毎日である。 生真面目で几帳面なわたしは、来る日も来る日も日記を書き続けた。 365日
日々の暮らしのなかにある、ライターとの接点といったら、 パンフレットのような気がします。 受験生のいる家庭なら学校案内がありそうですし、 会社には営業ツールとして商品パンフレットや会社案内があるはず。 GoToキャンペーンでざわつく観光業もパンフレットと縁が深く、 最近ではデジタルパンフレットまであります。 パンフレットのようにある程度のページ数があるものは、 制作会社に任せることが多いのではないでしょうか。 なにしろ、わたしにも仕事がやってくるくらいですから。 「パン
まだ昭和だったころ、小学校を卒業した。記念品として贈られたのは、『故事ことわざ辞典 特装版』(三省堂編修所 編)。いまも手元にある。 久しぶりに手に取ったのは、「三日坊主」を調べるためだった。わたしの知っている意味だけが書かれていて、新たな発見はない。 しかし、「三日見ぬ間の桜」ということわざに気づいた。 たった三日見ない間に、つぼみであった桜は満開になってしまい、 満開の桜は散ってしまう。物事の状態がわずかな間にどんどん変化する。 また、この世のはかないことをいう
三日坊主と似た言葉に「三日天下」がある。 [明智光秀のごとく]わずかの間実権(政権)を握ること。 【新明解国語辞典 第六版】 (明智光秀が天下を取り、日を経ずして殺されたことから) 極めて短期間しか政権・権力を保持できないこと。 【広辞苑 第七版】 続かないことを意味しているのに、三日坊主とはまた趣が異なる。 もののあわれと言おうか、ああ無情と言おうか。権謀術数やら怨念やらが、言葉のまわりにそこはかとなく漂う。 しかも、三日坊主が暮らしのなかにすっかり定着して
この世には、「三日坊主日記」なるものがある。わりとたくさんある。 そして、たいていは三日坊主どころか、続いている。三日坊主の意味を知らないのではなかろうかと疑うほど、続いている。 念のため確認すると、三日坊主とは下記のとおりだ。 飽きっぽくて、長続きしないこと(人)。【新明解国語辞典 第六版】 飽きやすく何をしても永続きしないこと。 また、そういう人をあざけっていう語。【広辞苑 第七版】 広辞苑の用例には「日記は––で終わった」とあるから、日記は三日坊主というのが相
ライターの活用方法を考えていました。 火をつけるほか、なにもできやしないと決めつけるのは早計です。 それはライターでしょう。わたしはライターのことは考えていません。 ライターについて考えていました。ライターではなく、ライターです。 しかし、文字というものは、ときに不便です。 まったく違うものなのに、まったく同じ字面とは! それなら、「lighterではなく、writerです」だと、伝わるでしょうか。火をつけるライターではなく、文章を書くライターの活用方法を考えていたのです