日本のテレビのテロップ事情〜フレデリック・ワイズマンに頭をガツンと殴られた話〜
仕事の一つとして、テレビ番組の制作をしている(ディレクター=ネタを決めて、取材・撮影・編集して、OAする人)。
情報系の番組なので、編集するとき、テロップ入れは欠かせない。タイトルを大きく入れ、説明を入れ、インタビューコメントを入れる。朝の番組などは、画よりテロップ優先じゃないかと思うこともある(テロップの文言チェックに命をかけるポジションのスタッフもいるくらいだ)。
それはテレビという「ながら視聴」され、「ピッと簡単に画面を消される」のが宿命のメディアゆえだろう。
SNSを見ながらテレビを観る、家事をしながらテレビを観る、出かける準備をしながらテレビを観る、こういうじっくりテレビを観ることのない人たちにチャンネルを変えさせないために、テロップだけ見れば内容が分かるようにするのだ。
私はこれまでドキュメンタリー的なものを多く創ってきたので、いつもこのテロップ入れに悩んできた。取材させていただいた方の表情や、その場の空気感など、自分が心を寄せて撮ってきた「画」を見せたいのに、番組の方針で大きくコメントフォローをいれなきゃいけないから。
そんなときだ。
アメリカのドキュメンタリー映画監督フレデリック・ワイズマンのインタビュー記事を、たまたまネットで見つけて読んだ。
彼はこう言った。
テロップを入れて説明するなんて、観客を馬鹿にしている
果たして、ワイズマンの創るドキュメンタリー映画には、テロップは一切なかった。
例えば、アメリカンバレエシアターのダンサーや先生、運営スタッフたちがワールドツアーに向かう姿を描いた映画(『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』1995年)を観た。
ワイズマンは、ただただ人々の表情や言葉、動きを追っていて、そこから何を感じるか、何を受け取るかは、すべて観客に委ねている。そんな映画だった。
余計な説明がないから、グッと集中して観たのを覚えている。映っている人たちの表情の変化を見逃さないように、画面の中で起こっている状況を把握するために。
自分のなんとなく持っていた“感覚”にマルをもらった気がした。
そうだよね。これが映像のチカラだよねと思った。
制作者(監督・ディレクター)が、この人はこういう人で、こういうことを感じた、だからこういう行動に出た、なんて説明することほどダサいことはないのだ。
そんな感覚で世の中を見渡すと、情報過多、説明過多なものが結構多いことを知る。
きっともっとシンプルでいいのだ。
私の好きな言葉の一つに「All is Well」(なんでもあり!)がある。
※大好きな中野裕弓さんがお話しされていた言葉
どう捉え、受け取り、何を感じるかは人それぞれ。それをいちいち自分の基準でジャッジしなくていい。私はこう思った。あなたはそう思ったのね。それでいい。
一方で、そこにいる全ての人が「同じように」感じることがある。そういうエネルギーや圧倒的な感動が確かにあるのも、知っている。でもそれは長くなるので、またの機会に書こうと思う。
久しぶりにドキュメンタリーを撮りたくなった。ワイズマンのようなドキュメンタリーを。