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憧れても 求めても

先日、大学時代の友人たちと飲んだ。彼•彼女らは国会議員に、一流企業・取締役、地震研究者、資産運用スペシャリスト、米国某州・弁護士と、まぁ錚々たる面々である。

それぞれ専門分野があるから、それについて聞いてみたり、いま考えてること、携わっていること、家族のこと、夢中になっていることを話したり。ノリは学生の頃と全く変わらない。ついでに見た目もなんかみんな変わらない。ただワイワイ楽しい。

今はそんな風だが、出会ってから20数年、私の中で彼らに対する”認識”は大きく変わってきた。


学生の頃からやっぱり彼らは優秀だった。思考も、戦略も、発言も、同じ年と思えないくらい卓越していた。

18歳、田舎から出てきて、自己受容できず、自己肯定感も低く、周りの評価や承認を一番求めていた私にとっては、みな一様に眩しく、そしてコンプレックスを感じる存在だった。

卒業後、テレビ業界に入った私は、AD時代、彼らに会えなかった。時間的な話ではなく、精神的に。ただのアシスタントに過ぎず、何者にもなっていない状態で、社会人として(私から見ると)難しそうな仕事に邁進する彼らとの差は開くばかりと感じていたから。

ディレクターとして実績を積んでいく中で、少しずつ気負いなく会えるようになった。取材が、撮影が、とにかく楽しくてしょうがなくて、この仕事は「天職」だと思った。どんなに大変なことがあっても、それすら楽しい。アドレナリン出まくり。その充実感と自信が、とかく低かった自己肯定感を高めたからだろう。

私の場合、息子が来てくれたことも大きかった。彼の命をこの世に送り出した瞬間、彼をこの胸に抱いた瞬間、それまでの人生すべて、自分という存在全部、まるっと受容。それまで色々経験してきたのは、すべてこの子を育てられる人になるためだったのだと思えた。


そんな風に私自身が少しずつ少しずつ掴んできた成果と自信のおかげで、眩い彼らとフラットに、当たり前に会えるようになった…

そう長らく思っていたのだが、実はそうじゃなかったみたいだ。先日、彼らに会って、確信した。



私が変わったのは、“外側”に注目しないことを覚えたからだった。

ある学びをするために動いたのが、去年の夏から今年の春にかけて。色んな意味で”清水の舞台から飛び降りる”挑戦だった。そこで私は、外側=目に見えるものに価値はないというこの世の真理に触れた。

まだ深くまでは腑に落とせてはいないのかもしれないが、そういうものなんだと知り、あぁそうかと納得し、忘れて、また復習し…そのプロセスを繰り返す中で、自然とその”認識”で世の中を見渡すようになったら、なんというか煩わしいと感じることが極端に減ったと感じる。

目に映るもの、日々起こる問題(と思えるもの)、煩わしいと感じる人間関係、体調…それらはすべて自分の”認識”が作り出したもので、自身のスクリーンに映し出したものに過ぎず、それ自体に何の意味も価値もなかった。

思えば、良しとされること、賞賛されるものは、その時々で変わることは自明で、そこに命を削るほどエネルギーを注ぐことはないのだ。

先日会った眩い彼らとのことに戻ると、年収も、活躍の幅も、影響力もさまざまな彼らの外側ばかりに囚われていたら、いつしかフラットな関係ではなくなっていただろう。

自己受容とか、自己肯定感とか、それを獲得する過程は、私がこれまで生きてくる上で確かに必要だった。ただ、そこはゴールではなかった。



さまざまなソーシャルメディアが発達し、特に「観る」ことが全盛になっているこの時代、外側に囚われ過ぎると、きっと苦しい。憧れても、求めても、それは常に変化するのが理だから、キリがない。

もっともっともっと深いところの”認識”の書き換えが、これから特に必要になってくるだろう。


私自身、まだボンヤリではあるものの、”認識”の書き換えで「現れる世界」が変化することを経験した。これから自分のスクリーンにどんな世界が展開するのか、少しビビりつつ、楽しめたらいいと思う。


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