【エッセイ】詩とエッセイのねるとん紅鯨団(伝われ…)
『ココア共和国』(以下ココアと略します)という名の詩誌がある。
紙版と電子版があり、毎月28日発売するココアには100を超える詩が掲載されている。
今存在する詩誌でココアは一番アツく活気に満ちていて新しい挑戦をしていると個人的には思っている。
毎月投稿されてくる多くの詩を出来るだけ取りこぼしたくない編集者側の誠意が痛いくらい伝わる。
選考とはなんだろうかというそもそも論にまで意識が及んでしまう。
年齢は関係なく詩を書く無名の者たちの瑞々しさを尊重してくれている。
きっかけはとても大事だと思う。
本当はこんなに土から新芽が出ていたんだよ、と後から知らされても遅いのだ。水やりを諦めればその新芽たちは枯れてしまう。きっとそういう機会が少なかったから本来芽吹いて育って花実をつけたはずの枯れ果てた新芽が沢山あったはずなんだ。
ココアは風穴を空けてくれる。
私も詩を書く端くれとして感じる文壇ならぬ詩壇の閉塞世界。分厚いコンクリの壁じゃない。国の指定文化財並の古い木造の壁だ。強度はそうでもない。ただ立ちはだかる歴史という水戸黄門の印籠。伝統は破壊できない。でもそれは解釈の違いでどうにでもなる。
破壊じゃない。壊すんじゃない。善くするのだ。
老朽化に伴い倒壊の危険性がある建物は補強、修繕エトセトラしなければならない。
てなわけで一旦ここは崩しまーす!ってな感じで木造の壁に穴を空けましょう。空けてもいい壁があるんです。
ココアはその役目を買って出てくれている。
決してフレッシュで超若者とはいえない私(とはいえ嵐の松潤と同い年(この期に及んでも抗う…トホホ))でもそういう存在を待っていた。
どんどん未来に向けての、これからの詩を考えて作って拓いていきましょうと。手を繋いでくれる、引っ張ってくれる頼れる存在を望んでいた。
ココアは4コマ漫画の詩version「4コマ詩」やエッセイも掲載されている。
漫画家のいがらしみきおさんや俳優の秋吉久美子さんをレギュラーに毎月ゲストもお迎えしている。ミーハーな私は秋吉久美子さんが携わっているだけでも目がキラキラしてしまう。
毎月欠かさず投稿していて最近になって気に留めたのがエッセイの存在だ。
私はエッセイを読むのも書くのも好きで、推しのエッセイストさんもいる。
私の面白いと思えるエッセイの共通点はユーモアと意見を言えるところだ。
それは毒舌と誤変換される。
意見をはっきり言うことと毒舌は違う。
松尾貴史さんがナンシー関さんの文章を芸だと称したように、それらはエッセイストさんの芸なのだ。
ナンシー関さんはコラムニストという紹介をされているが潜入ルポも書いたし、棟方志功との思い出や青森での青春や東京でいとうせいこうさんとの出逢いに至るまでの回想を綴ってもいる。
40歳という若さで急逝されたナンシーさんはこの国の文化規模での損失としてあまりにも大きい。
私はナンシーさんもエッセイストであると思っている。
書店でエッセイのコーナーを見てみると瀬戸内寂聴さんや五木寛之さんの名前もある。
エッセイとは幅広いなと腕を組みながら書棚をじっと眺める。
私の中でエッセイといえばこだまさん、室井滋さん、辛酸なめ子さん、ナンシー関さんである。
この錚々たるエッセイストの方々に共通する私の好きそうなユーモア。物言い。信念。ぬくもり。
とにかく私の「面白い」なのだ。
私も面白いエッセイを安定して書けるようになりたいとも思っている。
私は詩とエッセイについて最近考える。
書きたいからといって簡単に面白いものなど書けるはずない。
それは詩もエッセイも変わらない。
私は詩の人間でいたい。それが軸。
それでもエッセイも書きたいというのは欲張りだろうか。
どちらも自由に思いのまま書いていい散文という共通点はある。
だが、詩は決してノンフィクションでなくてもいい。詩は究極何だって有りで空も飛べちゃうし魚にだってなれる。
でもエッセイはフィクションではいけない。
表現としての誇張や可笑しみは許容範囲だが嘘を書いてはいけない。もちろん相手あっての話だが実名など個人名を出すことで問題も生じる場合は伏せたり仮名や多少の遠回しは必要だと思う。が、基本は現実の延長線である。
身を削る度合いはエッセイの方が大きい。
ココアは詩人がエッセイを任されることがある。
そのエッセイは個性が当たり前なのだが人それぞれ違って実に面白い。
詩のイメージと違うとなおさらに。
面白いとは人それぞれ違う。
美味しいが人それぞれ違うように。
踏まえて、私が面白いと思えて納得のいくエッセイを書くにはどうしたらいいだろうと考える。
書いてくうちに慣れたり掴めたり学んだりしていくものだとしても個性はきっと変えられない。
それがエッセイの世界観だと思う。
私の好きなエッセイストのようなエッセイに近づけたくてどこかで意識して書いているがそんな器用なこともできないし、できるわけない。
そのエッセイストは唯一無二でその方の人生を背負っているから。
私も私の人生を背負ってエッセイを書くしかない。
そのテイストが私のエッセイの個性になる。
私は頭でっかちでユーモアが半端で気の利いた言葉も選べないと自覚している。
それでもクスっとでも笑えて、どこかスン…となる悲哀も込められたら万々歳なのだ。
詩とエッセイは背中合わせの存在だろうか。
背中合わせでも密着していることは確かだが。
それでもココアの一冊に集約された詩とエッセイの組み合わせは白米と納豆、或いはキムチでも海苔でも卵でもエトセトラ…
それくらいの相性の良さがある。
だからエッセイもしっかり書けないといけないのだ。
私はどちらも書いている。これからも書き続けていく。上手く書けるようになりたいから。
あなたの詩よりあなたのエッセイが好きと言われても
あなたのエッセイよりあなたの詩が好きと言われても
どちらも好きと言われても
どちらも嫌いと言われても(これは嫌だな…)
喜べる自分になれたならいいのにな。
私がエッセイを読むのが好きなようにエッセイストも詩を読むのが好きだったら小躍りどころじゃない喜びなのにな。