【エッセイ】ゲド戦記のクモがよぎった
人生50年は織田信長の時代。
今は何年だ?
100年だっけか…80年だっけか…
年齢というのは個人差が激しいなとつくづく思う今日この頃。
お昼の30分間の通販番組でグルコサミンだのコラーゲンだの日替わりで紹介されてる中で愛用者の年齢にお世辞抜きに驚愕した。
80歳を超えた女性が信じられないくらい若々しく悩みだった顔の皺を商品の美容液を使用してプルンプルンに潤った頬を、ほら、こーんなに、フフフとその弾力を見せてくれるのだ。
今の80代は一般の人でもこんなに年齢不詳なのだなとおったまげた。
健康寿命など新しい言葉が氾濫する現代で、とにかく長生きという昔ながらの寿命一点だけを重視すれば80歳以上を目指すのは一昔前より無理なことでもないのかもしれない。
が、果たして私は80まで生きていられるだろうかと突然不安になった。
それもきっとあと4ヶ月をきった私の誕生日を意識しだしたからだと思う。
さよなら30代なのだ。
次のハピバには40歳。突入するという感覚。
これはかなり考えさせられるものがある。
人生80年でいえば半分過ぎるのだ。
私の人生も半分終わるんだ…っていうか終わったんだ……
まだ迎えていないのに終わったんだと呆然となった。
買い忘れていた納豆を買いにスーパーへいった帰り道、財布と納豆だけ入っていたスカスカのエコバッグが虚しく揺れる。
私は歩いていると脈略もない思考が湧き出てくる。
困ったもんで、一秒前には蓋をしていたであろう臭い無意識が頭を支配する。
受け止める以外どうしようもないことなのに。
「こわい……こわい……死ぬのがこわい……」
宮崎吾朗初監督作品「ゲド戦記」のクモの声がした。
うっとりするような田中裕子さんの声でハイタカの魔法の剣で若々しく凛としていたクモの容姿は見るも無惨な醜態を晒していた。
生の執着剥き出しで死を恐れ拒むクモが私の頭をテルーの代わりに締め付けていた。
まだ何も成し遂げていないのに…
死ぬのは嫌だ…
こわい……こわい……
私がもうクモだった。
空が次第に暗くなっていく。
日は長くなったが夜はやって来る。
夕焼けは隠れ空は霞んだ群青色で、クモの最期のシーンの日の出間近の薄い青色に似ていた。
それが益々年齢から目をそむけさせようとする。
冒頭で年齢は個人差が激しいと綴ったのに説得力に欠ける戸惑いっぷり。不甲斐なし。情けない。
下記に貼った一年ちょっと前の記事で当時38歳の私が早生まれとその反対の言葉の遅生まれについて私見を述べている。なんか初々しささえ感じる。この一年が本当に貴重なんだと突きつけられている。
私は(ないものねだりだが)遅生まれがよかった。8月生まれは大体真ん中で悪くもないんだけど欲をいえば3月最終日に近ければ近いほどよかった。クラスで一番最後に歳をとりたかった。
4月1日の子とほぼ一年の年の差を感じて死への距離を遠ざけたかった。
年齢は上がることはあっても下がることはない。
もう戻れない。下へは降りられない。上るしかない。爪痕を残して上るしかない。
急に同級生の声が恋しくなった。
スポーツインストラクターのYouTuberになった友人の動画をクリックしてあの頃より落ち着いた喋り方になっていたが変わらない懐かしい声を聴いた。
お前も同じ歳なんだよな…なんて。
わけのわからない安心感に包まれた。
そんな自分が気持ち悪く思えた。
クモの声はうっとりするがかき消さねば。
そして生きねば。
納豆のパッケージがエコバッグに擦れていた。