【山羊日記#18】少しボリュームをさげてみえる世界
今となっては肘タッチも一種のパフォーマンスにしかみえない。
軽くハグしておひらきになったお偉いさんの会合の映像。
(結局ハグするんかい)と心の中でつっこみが入る。
これって我々一般人も日常で握手したくない人には肘タッチなりグータッチで誤魔化してその場をしのぐのかな?とさえ考えてしまう。
ってことは肘タッチなりグータッチされたら拒否されてるってこと?(ひ、ひぇ~💦)
それと、グータッチした後に涙を手の甲で拭ってる姿にひやっとしたりもする。
無音だと味気ないからテレビの音量を下げてつけながら、あれやこれやすることがある。
電気代高いから消したいけど創作してる時やその手前の段階で自分に集中するのには丁度いい環境だったりもする。
無意識に思考は働くもので普段気にしてなかったことが春の芽吹きのようにポンポン浮かんだりするからやめられない。
それは大抵なんで今さら?とか
じゃあなんだったのか…とか
揚げ足を取るものばかりで
正直気持ちのいいものではない。
心でつっこみ、処理する。
えせ関西弁は使いたくないが
心の中でなら(なんでやねん)とつっこめる。
体育座りは内臓を圧迫して腰にもよくないから廃止の方向へ………
(なんで今さら?)
やってみてダメならまた考えよう。
賛成。大賛成だ。
はじめから正解の紐を必ずひけるわけはない。
に、しても
遅すぎゃしないだろうか。
体育座りなんて白黒の時代から当たり前のように疑問ももたずにさせられてきたことなのに。
うさぎ跳び、タイヤひき、水を飲まずに運動させられる……これらは間違いだったと今ではスパルタ猛特訓のメニューから外されている。
(うさぎ跳び、したな~)
もはやスパルタさえ危うい響きである。
体育座り廃止したらみんな体育館や運動場などでどんな座りかたをさせられるのだろう?などと余計なお世話をやいてしまう。
人それぞれに座りやすい姿勢はある。
あぐらでも正座でも足を横に伸ばしても
どんな座りかたでもいいと思う。
この際統一させず自由に座らせてあげてほしいなと思う。
箸の持ち方を指摘され矯正するのはマナーや作法といった意味では必要なことだが座りかたでからかわれることの程度の低さったらない。
人の座りかたを笑うな。と、どこかで聞いたことのある映画のタイトルっぽく言ってみたり…
あぁ、なんだか体育座りの件でしょっぱい思い出が蘇ってきた。
現実問題、どこまでが許容されるものなのか。
夜中のコンビニ前にたむろするヤンキーはもう一昔前の風景となりつつあるが、彼らのいわゆる「う○こ座り」は全校集会の校長先生の長くもありがた~いお話の前では無礼にあたるのだろう…
(全員がう○こ座りして校長の方を向いている映像を想像したらなんだか笑えてくる)
先生も見極めやジャッジに悩まされるだろう。
先生の精神的負担がまたひとつ増えることが気がかりでもある。
同調圧力をここ三年で頻繁に考えた。
個人を主張するには勇気がいる。
それが信念を貫くことなのかもしれない。
きっとみんなと一緒が楽だから目で見てわかるものから同じであろうとする。
私の高校時代は全校生徒の8割はママチャリだった。あえてのママチャリ。今でも謎。
ハンドル前方籠付きの後部席付き。変速ギアのない比較的車体低めの
「THEママチャリ」
ママチャリじゃないやつはイケてないレッテルを貼られん勢いだった。
そこにマウンテンバイクで颯爽と登校してくる姿は見ていて気持ちいいものがあった。
あのマウンテンバイクの生徒に一票入れたい(なんの票だ)
話を戻すとボリュームを下げたテレビからは比較的冷静に自分の意見を挟める余地を持たせてくれるということに気が付いた。
つっこみどころ満載。
躍らされないように耳を研ぎ澄まさねばいけない時代。
当たり前から疑おう。って…
なぜ登山者はヤッホーと言うのか。
ディズニーのこびとたちはハイホーと歌い
北島のサブちゃんはへいへいほーだということも…
(なんじゃそりゃ)