首相秘書官の問題発言について。
3月4日、岸田首相が首相秘書官の荒井勝喜氏を更迭したニュースが駆け巡りしました。前夜の問題発言を受けて更迭は避けられないと報じられていましたが、北陸出張中の岸田首相が早期収束をはかった格好です。
荒井氏がいわゆる性的少数者について、「隣に住んでいたら嫌だ。見るのも嫌だ」と発言した問題については、LGBTの支援団体のみならず各方面から強く批判されていることから、更迭という判断は妥当だと思います。
この荒井氏の発言は、同性婚についての岸田首相の国会での答弁を意識して、記者団から寄せられた質問への回答の中で触れられたものです。その要旨は以下のとおりです。
岸田首相は、2月1日に衆院予算委員会で同性婚について質問された際、「家族観や価値観、社会が変わってしまう課題」であり、「極めて慎重に検討すべき課題だ」と答弁しました。同性婚については国論を二分する大きなテーマであり、首相の答弁としてはやむを得ないニュアンスなのかもしれません。
荒井氏の発言は首相の認識よりも明らかに踏み込んでおり、上記の発言だけでなく、「国を捨てる人、この国にはいたくないと言って反対する人は結構いる」「秘書官室は全員反対で、私の身の回りも反対だ」とまでいっています。
国民の多様な価値観や意見を集約するのが困難という認識にとどまらず、オフレコにおける個人的な意見とはいえ、明らかな人権侵害に等しい発言をしている以上は、弁解の余地はなく更迭されたのは当然だといえるでしょう。
人間には内心の自由がありますから、心の中で同性どうしが恋愛関係になることが理解できなかったり、同性婚のような発想に嫌悪感を感じるのもまた自由ですが、それを外に向けて口外するのはあまりにも人権感覚に乏しいといえます。
ましてや首相秘書官という国家の舵取りにも関わる重要な地位にある人の発言ともなれば、おのずからその重みや責任は一国民とは比較にならないのであり、決して許されるものではないはずです。
岸田首相は、「持続可能で多様性を認め合う包摂的な社会を目指す」という政府の方針とまったく相容れないことを、荒井氏の更迭の理由として挙げています。
だとすれば、それは同性婚を認め推進すべきだという意見や立場と、伝統的な家族観や価値観を重んじる意見や立場とを、ともに認め合っていく社会が望ましいということになります。
日本はそもそも前近代においては、同性愛については寛容な国柄であったことが知られます。江戸時代以前においては、同性どうしが恋愛感情を持つことが忌避されることはあまりなかったとされます。
それでも、明治以降の西欧化・キリスト教文化の導入の中で、日本古来の伝統とはいえないにせよ、近代国家としての日本の国家観や価値観に愛着を持っている人が相当数いることも現実だと思います。
歴史の移ろいの中で若年層になるほど寛容なジェンダー規範を持つ人が増えつつある時代にあって、大切なのは「自分と異なる意見の人たちをやみくもに敵視しないこと」ではないでしょうか。
同性婚や夫婦別姓や新たなジェンダー規範は時代の趨勢だと思いますが、だからこそ時代を確実に前に進めていくためには、「対決」ではなく「融和」が何より必要なのではないかと感じます。
荒井氏の発言は大人として論外なものですし、更迭は当然の結果だと思います。その上で、いかなる意見や価値観も決して否定されるべきではないという思想・信条の自由は堅持されなければならないと思います。
大人が言葉にする発言にはモラルと責任を伴うのが当然ですが、他人との意見や考えの違いを共有していくこともとても大切です。「本音をいったら叩かれるから陰で話そう」といった風潮が強まるとしたら、大きな弊害になりかねないでしょう。
ダブルスタンダードが当たり前のような世の中になってしまうことで、かえって多様性が認められる流れが暗礁に乗り上げて、いつまでも無益な抗争が続いていく状況になる懸念もあるように感じます。
同性婚に賛成するのも反対するのも自由ですが、「嫌だ」「気持ち悪い」という感情で反対するのではなく、はたまた賛成派も反対する人の人格を否定するのではなく、認め合う努力を重ねる中で新たな時代に備えていきたいものですね。