「観客は女性、審査員は男性」の不思議
つい先週まで薄着だったのが嘘のように、いっきに秋深まって、寒い季節になりました。あまり違和感もなく年末モードに近づくのが、ちょっと不思議なくらい時間の流れを感じます。
年末年始といえば、テレビをみる人も多いかもしれません。私もふだんお笑いとかはあまりみないですが、お正月番組でやっていたりすると、思わずお正月気分に誘われてみてしまう気がします。
ということで、つい先日こんな記事が目にとまりました。「観客は女性、審査員は男性」。お笑いでグランプリに輝くのはほぼ男性で、審査員もやはり男性ばかり。なのに、観客の笑い声は女性の声ばかり・・・
あまり意識したことはありませんが、逆に疑問にも思わないくらいよくある光景であり、それゆえに記事にあるように、固定化されたジェンダーロールが、だれも違和感のないうちに植え付けられているといえるのかもしれません。
この構図は、なにもお笑いにかぎりません。デパートだろうが飲食店だろうがはたまたネット通販だろうが、基本的な絵はほとんど似ていますね。問題なのは、それは恣意的で社会的に操作されたものかどうか、その影響が不利益を与えているかどうかだと思います。
女性は本来笑顔で笑いやすいというのは、ある意味幻想だといえます。人間の性格や気質は生まれもっての性別で自動的に決まるものではなく、その後の教育や風土が影響を与えるにせよ、基本的には個体差の方が大きいはずです。
それは男性とて同じで、男性の方がステージにあがるのに向いているとか、審査員として客観的に評価するスキルが高いとは、そう簡単に断言することはできません。要は、今まで世の中に培われてきた、「イメージ」がそうさせている部分が大きいのでしょう。
メディアというのは、ある社会が投影されている産物だともいえますが、同時にそのメディアの意図や作為によって、社会の雰囲気や空気が濃厚にコントロールされるという特性を持っています。「メディアはメッセージである」(マクルーハン)という構造は、現在においても大略変わりません。
だとしたら、少なくともある意図をもって私たちの性役割すら、高度に誘導されたり歪曲されたり感化されていることに気づくことが肝要だといえるでしょう。女性がいきなりひのき舞台を駆け上がるというストーリ―が理想ですが、せめて予想に外れて会場が男性の笑い声いっぱいで包まれるという光景は面白いかもしれません。
日本は空気に支配された社会ですが、メディアや社会的なコミュニケーションのあり方が劇的に変化する中で、この意味もまた変容しつつあると思います。男性的、女性的というジェンダーロールに忠実に従うことの利益は、従来の社会ほど大きくはなくなりつつあるのかもしれません。
いきなり「審査員は女性、観客は男性」という構図が出現するのは無理があるにしても、じわじわとモザイク状に今までの常識や規範にアグレッシブな意味で対抗するような個性が増えていくのが自然でしょうし、時代はたしかにその方向に向かっているように感じます。
学生時代に初めて時事についてコラムを書き、現在のジェンダー、男らしさ・女らしさ、ファッションなどのテーマについて、キャリア、法律、社会、文化、歴史などの視点から、週一ペースで気軽に執筆しています。キャリコンやライターとしても活動中。よろしければサポートをお願いします。