吉川浩満著『哲学の門前』を読みました
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784314011938
個人的な印象なのだが、吉川さん(と親しげに呼ぶファンは多い)の文章やお話から、よく「圧のかかったねじれ」という感じを自分は受ける。ご著書から、あるいはclubhouseでのお話から(不思議と山本貴光さんとのコンビネーションだとその印象が生じない)。例えば、簡単に誘導されそうな方向性がそこにある時、吉川さんは必ず、すぐさま逆の可能性を提示される。前者はすこぶる魅力的だが、後者の動かしがたさが話の運びに効く。誘導する吸引力の強さと同時に、抑制の盤石感。そんな“動的かつ静的であること=圧のかかったねじれ”が自分のイメージする“吉川節”である。
本書は、ご著書の中では読みやすい。例えば『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』は、最初難しくて読めなかったが、『理不尽な進化』を読んだら読めるようになった。しかし自分は今回、それとはまた違った難しさを感じた。
それは、なんだか普段より深い思考に導かれそうで、しかし何故か、見えない柔らかな厚い壁が行手を阻む感じ。
あるいは、読みやすくするすると進んでしまい、立ち止まって考えたいのに、読みやすい分、うまく“引っかかる”ことができない…というか。
目の前に宝箱があり、「さあどうぞお開けなさい」という雰囲気なのに、いざ開けようとすると鍵穴がうまく見つからない。
Twitterを見ていても、多くの人がリリースされて割とすぐ感想を書いていて、自分も何か書いてみたい気持ちになったのだが、しかし攻めあぐねて、そのままになってしまっていた。
話は違うが2022年の秋から冬は、個人的に充実した勉強の季節になった。本書のあとがきにも出てくる「非哲学者による非哲学者のための(非)哲学の講義」http://socio-logic.jp/nonPhilo/を立ち上げ当初から継続受講しているが、そこにプラスして、スピンアウト企画「「哲学入門」読書会」http://socio-logic.jp/nonPhilo/bookclub.phpに参加し、これまた目から鱗の勉強をしたのだ。読むとはこういうことだったのか。若くなくても自分をバージョンアップできる喜びよ。
それで、今ならもしかしたら、とっかかりを掴めるかも。そう思って、年の瀬に再度ページを開いてみたのである。
最初に掲げた冒頭部分。すこぶるオーソドックスな出だしだと思う。
しかし、そこでツルッと通り過ぎてはいけない。一文目から改めて考えると、「知識の有無」というのは哲学に向かう際の道具立ての有無。で、好むか否かは、本人の哲学する意志の有無。常識的に考えたら、意志のある人が、道具立てを揃えて、立ち向かうというところだ。
それに対して本文は“そんなこととは関係なく、人は哲学に出会ったり付き合ったりしてしまう”と言っている。ということは、逆に、準備万端やる気満々なのに、出会えず付き合えないというケースもあろう。要は、哲学との出会いは個人の意志や事情を超えているということだ。
そうやって考えると、何気なく書かれた冒頭部分が、なにやら哲学というものの運命的な性格を表しているような…いないような…気がしてくる。人が哲学を選ぶのではなく、哲学が、人を選ぶのだろうか?
二文目。「哲学とは無縁に見える人」とは、一文目を踏まえて考えれば、哲学の知識もなく別段興味もないタイプだろう(例えば2017年までの私)。そういう人が「思わぬ時や場所で哲学や哲学的問題と出くわす」。サラッと書いてあるが、それはなかなか、のっぴきならない状況なのではないか?最近読んだ本に、哲学とは大きな問いを扱うものだとあった。存在とは/認識とは/言語とは…みたいな。何の知的訓練もなく、自ら求めずして、そういう次元の問題に鼻突き合わせるはめになるのだから、どんだけ困難な状況か、と思う。理屈から言えば軽い状況もあるはずだが、上手く想像できない。
そして三文目「そんな場面を見聞きするのが私は好きです。」…取りようによっては鬼と言えなくもない。
ここで自分は最初に読んだ吉川さんの文章を思い出した。ちくまの高校用評論教科書に載っていた功利主義を紹介するものだ。https://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/textbook/subtext/hyouronsen-r2.htmlトロッコ問題を初めて知って素直にショックだったのだが、それ以上に吉川さんの突き放した視点が怖かった。また、本書より少々毒のある、やや露悪的なテイストの書き振りでもあった。
その突き放した感じが、改めて『哲学の門前』を掘り返すように読んでみたら見えてきた…。常識的で穏当な書き振りの陰に隠れていたけれども。
さて、「はじめに」に戻ると、“門と言えば入門書だが、それを書くのは自分の任にあらず。では、門前書ならばどうか”と続く。
冒頭の三文を読み解いてみて、ここで私は、はたと自分の勘違いに気が付いた。
「哲学の門前」と聞いた時、哲学に関心があるために“門の中こそが主で前は従”というイメージをぼんやりと持ってしまっていたのだ。しかし、本書を読むに際して、それは(致命的に)間違ったイメージである。
哲学の門前という場所は、哲学に選ばれてしまった人々の吹き溜まり…という、大変特異性の高いナゾな場所なのである。思えば(全く登場しないけれど)漱石の『門』の主人公宗介だって、自分は、門の中に入れるピュアな善男善女でなく、さりとて門と無関係に離れて暮らせるわけでもなく、ただ門の前に佇むよりほかない人間だ…と胸中を吐露していた(もっとも彼の場合、門は、信仰による救いだったけれど。求めた門に絶望してふと振り向くとそこにはドーンと哲学の門が建っていた…という妄想が湧いた)。
哲学の門前をそういう特異なステージと位置付けてみると、私のイメージする吉川さん(圧のかかったねじれの主)の独壇場に思えてきた(というか、実際本書で記述されるのは吉川さん個人の歴史なわけなのだが)。
そして、ひとたびこのように話の焦点が掴めたら、突如、あの“見えない柔らかな厚い壁”が雲散霧消し、各エピソードが生き生きと語りかけてくるようになった!それで、思わず改めて一気読みしてしまった…。
特に《幕間》の前までのエピソードはひとつひとつがとても重く(Mちゃんの登場には救われる)、話のポイントも独立していて、それぞれに大きいテーマだ。最初自分は、話の進むままに不用意に読んで、全体としてどこに焦点を合わせればいいのかよく分からなくなってしまったのだろう。
しかし今、「哲学の門前という特異点での、ねじれの主:吉川浩満氏の孤軍奮闘ぶり」を一貫した主題と思って読み直すと、胸熱でしかない。
そこに描かれる様々な場面の中、吉川さんは一貫して真摯であり、そして関わる人への情が熱い。しかしひとたび考察の章に移ると、ちくまの教科書で見た突き放した視点が感じられる。大きな思考を全うするのに必須な距離感なのかもしれない。
「《幕間》君と世界の戦いでは Ⅰ/Ⅱ/Ⅲ 」では(多分)私の思う「ねじれ」や「突き放した視点」を、吉川さん自身が話題にし、その成り立ちを語っている。YouTubeやclubhouse(最近はTwitterスペース)でのイメージ(バンドTシャツ姿で面白い小話をしてくれるめちゃ親切な重量級読書家)と異なり、「ああ、この人は思想家なんだな」と思った。
そしてここから後の章は、思想家:吉川浩満氏の日常という感じ。主題である“仕事”も“友だち”も、出来事というより、ある長い時間の中で培われるものだからか、(確かにストックオプションの話などは仰天するがそれでも)前半章より穏やかな印象である。なにもクライマックスシーンばかりが哲学の契機ではない。積み重なる些事の隙間に哲学あり。日常的な立ち構えについての哲学的示唆に富むパートだ。
そして最終章「門前の哲学」では、哲学の門前に生きることと門の中(いわゆる“哲学”そのもの)との関係がどのようなものか語られる。(ここには、“意志と準備があっても哲学に出会えないケース”や“出会いはしたが軽いケース”もちゃんと扱われている。)ふらふらと哲学の門前に迷い込んだひとりとして、先輩から、この場のありようや望ましい振る舞いの丁寧なレクチャーを受けた気持ちになった。
改めて読むと、「はじめに」でも、自分が冒頭三文から考えたことは「概念的雪かき」の比喩でキチンと説明されている。つまり自分の読み取りが悪いのであり著者は悪くない。
自分が感じた難しさは、学術用語ではなく日常的な語彙で書かれている(だから読みやすい)がゆえに、自分の言語感覚(語意のニュアンス)が混ざり込み、話の焦点がブレがち…ということだったのかなと省みて考えた。焦点が合わないと、読んでもピンと来ず迂闊にスルーしてしまい、でも視野を通ってはいるので、「ん?」ともやもやが溜まってしまう。こういうのは、何的雪かきと言えばいいのだろう。降り積もるもやもや降ろし。雪かき的勉強か。
2023年も勉強がんばろう、そしてもっとしっかり読んでちゃんと考えられるようになろう。それで、もうちょっと一丁前の門前の徒になれたら…と思った。