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ピアノ演奏時におけるアガりを深堀りしてみたら・・・

洞察してみた


久しぶりにストリートピアノを弾いてきた。

ずっと体調不良が続いていて、ピアノもまともに弾けなかった中、弾きに行けたこと、久々にnoteを更新できたことはとても良かったと感じているが、
ここで、あらたな気づきが生まれたので、書いていきたいと思う。

(というか少し前から感じてはいたのだが、なかなか書く機会がなかった。)

久しぶり(と言っても数か月単位なのだが)のストリートピアノでは、最初の頃と比べて慣れてきたなとは思うものの、やっぱりアガりはなくなったとは言えず、ただでさえミスが多いのに家での練習よりミスが多かったり、演奏そのものに集中しようとしても「自分の演奏をどう思われているか」を気にしながら弾いていたというところがあって、周囲を気にする思考状態が、自分の中でうっとうしく感じた。

私は極度のあがり症で、それは客観的にもそうだと言えるほどのものなのだが、
どれくらい極度なのかというと、およそ1年半前、初めてストリートピアノを弾きにいったとき、ピアノ歴約40年にもかかわらず、スケール(音階)もまともに弾けなかったというくらいのものである。

具体的には、
・指がこわばってスムーズに移動できない。
・指に力が入らなくなるので音を掴めない、音が飛ぶ。
・大事なところで思いっきりハズしてしまう。
・楽譜を見ながら弾いていた曲に関しては音符は目では見えているが、頭には入ってこない、つまり音符が読めていない、スムーズに音符を追うことが出来ない、、みたいな精神状態に、少しなってしまっていた。

自分でも、どうしてここまでの状態になってしまうのか・・例の初めてのストピ体験を思い出しながら、ショックを通り越して不思議なくらいであった(とはいえ、少しづつ慣れてきたという感覚もあるが。)

そんな私のあがり症について、家に帰って改めて思い出してみた。
この強烈な「アガッてる」状態を、客観的に見て分析してみた。
すると・・・



これは、いわゆる「パニック」の一種なのではないかと思えてきた。


パニック障害というと大げさだが、要はそれに近い脳状態になっているんじゃないかと感じたのだ。
いつもの日常の状態ではないとき、災害時や非常事態のとき、パニックになったり、頭が真っ白になったりすることがあると思うんだけど、要は脳がこの状況を「非常事態」と捉え、パニック状態を引き起こしてるんじゃないかと思った。
それはつまり、「ストリートピアノを弾く≠人前でピアノを弾く」ということが、脳にとっては危険ととらえている、安心安全ではない状況だととらえているんじゃないかと思ったのだ。

それとは対称的に、一人でピアノを弾いているときは、さして恐怖は感じない。パニックにもならない。


人間の活動はおおよそ人間関係が絡んでくるし、一人だけで完結する人間の活動など、およそ皆無だと言っていい。
だから、ストリートピアノ演奏時における「パニックやアガり」とは、周囲にいる人間にどう思われるかを考えると不安、批判を浴びたり文句を言われるなど攻撃されるかもしれない、それが怖い、というような「周囲の人間は敵だ」という誤認からの脳の反応。

では、どうして(脳が)このような捉え方をしてしまうのか、そこを深堀りしなければ解決には至らないと思うので、そこもさらに考えてみた。

パニックに陥るということは、その状態は一種の「恐れ」を感じているのであり、その恐れとはこの場合「一種の対人恐怖」であろうということだ。
ここが根底にあるような気がする。

そしてその恐怖を感じた大元は、というと、幼少期~青年期、親や周囲との関係の中ではぐくまれてきたものだ。というよりほぼ親との関係の問題であろう。

私が体験してきたことで言えば、
自分を主張すると否定されてきた、人格を否定された、(学校で)いじめられた、責められた、世間は危ない場所、知らない人について行ってはいけません殺されますよと教えられた、等々・・

そういった体験が強烈に刷り込まれ、いつしか「私は自己主張してはいけない、言いたいことを言ってはいけない=表現してはいけない」という観念が出来上がった。
そして「人は私を攻撃する、周囲の人間は敵である」というような観念も出来上がってしまった。

そんな観念のなか、強烈に自分を守ってきた中で、いきなり、ハイ、ストリートピアノですよー!楽しんでねー!と言われたところで、楽しめないのは当然である。いきなり自分をさらけ出すそんな行為に、パニック状態にならない方がおかしい。なんせ脳内では周囲は敵だと思い込んでいるのだから・・。


そしててもう一つは「自分を表現することの恐怖」。

否定されて育ってきたので、自分を出す、思いっきり表現すると叩かれたり攻撃される、否定されるのではないかという恐怖を感じる、これも誤認による脳の反応。だから、「自分を表現する」ストリートピアノという場面において、それは危険な行為であると脳が察知してパニック反応を起こす。

これら2つはいわゆる「認知の歪み」であろう。

(最近心理学のYoutube動画をよく見ているので、きっと認知の歪みで間違いないと思う。)

だって、よく考えていただきたいのだが、もし上記のような恐怖感が一切、なかったとしたら、人からどう思われるのかビクビクするような気持ちとか、表現することになんのためらいもなかったら・・・多分、このような強烈な「アガり」は、ほとんど出てこないと思うのだ。
(なかなかイメージするのがムズカシイとは思うが。)

周囲が敵だらけという認知のもとで、どうして自分を出すことができようか。

それが出来ていたのは、子供の頃、わずかだが、何物にもとらわれてない状態で無心に弾いている、というときが、確かにあった。

それがやっぱり成長とともに自我がはっきりしてきて、社会性が身についてくる中で、自分と他人の違いを感じてきて、そこにはどうしても比較というものがあらわれて・・・ということを聞いたことがあるので、人間社会においては、避けることのできない心理なのかもしれないが。
ここについては、どうしようもないと言わざるを得ないけど。

あとは、劣等感とか無価値感とか・・まだあるかもしれないけど、それらが複雑に混じりあって、症状を引き起こしてるんじゃないかと思った。私は専門家ではないので、自分の洞察はとりあえずここまでにしておこうと思う。
(といいつつもまんざら間違ってはいないとも感じる。)

「認知」と「現実」のギャップ

先ほどの「(認知の歪みによる)パニック状態」に話を戻す。


では、そうしたパニック状態、恐怖感の中で、実際に、本当に叩かれたり、攻撃されたりということが、あったのだろうか。

答えはNoだ。

むしろ、とても喜んでくださった方がいた。稚拙な演奏ではあったが。
たとえそのとき喜んでくれた人がいなかったとしても、少なくとも攻撃は、されなかったのだ。

まあ、聴く人の心の中まではわからないが。

でも大概は、自分の番が回ってくることを今か今かと待っている、という感じで、大抵は、何とも思ってない、というのが本当のところだろう。
なぜなら、私がそうだったから。

なんとも思わないというと言いすぎだが、「この人、うまいなあ」「う~ん、ちょっと、練習のやり方変えてから、出直した方がいいと思う」などと感想を心の中で述べたりはするが、それも「自分の演奏のこと」に比べれば、関心度ははるかに低いと言わざるを得ない。カラオケで自分の番を待つ心理と全く一緒である。

または、「この人はこんなにも堂々と弾いているのに、私は・・・」とふがいない気持ちにもなったりするのである。

でも一つだけ言えるのは、

「よくも悪くも、人の演奏にあんまり関心がない」
=裏を返せば「あなたを攻撃する気なんてサラサラありませんよ、私はあなたに敵意なんて抱いてませんよ」という証拠でもあるのだ。

ここで、重要なことが分かってきた。

敵意を抱いていたのは、私だったのだ。


先ほど「他人の演奏にあまり関心がない」と書いたが、もっと言うと、関心がないどころか、わずかだが敵意を抱いているということも自覚せざるを得なかった。

心から褒めたくはない。そんな気持ちにはなれない。
人の演奏を認めるのが悔しい。

これが、自分から出てきた噓偽りのない気持ちのひとつでもあった。

幼少期の親(や周囲の人間)との関係が、少なからず、というか根本的に原因の一つと思ったので、そこでの過程ではやはり、人への敵意というものが生まれてくるに違いなくて。
このストピ体験を通して、改めてここは見て見ぬふりはできないと感じたのだ。

私がしなければならないこと


これからもピアノの練習をする、ということと並行して、やはり、メンタル面の改善ーーー認知の歪みから来る「対人恐怖、人への敵意をなくすこと」が急務であると感じた。

というか、ここの改善なしに、ただ物理的にピアノを練習したって、それが素晴らしい練習法であったとしても、やはり限界があると思ったのだ。
(あくまでも私個人の場合。)

自分がこれまで、いかにズタボロの精神状態でピアノと向き合ってきたのかということが窺える。

いや、それ以前に、まともな練習をしていなかったから、そもそもピアノと向き合う、ということすらも出来ていなかったことになるが。

二重の意味で、ヤバイ状態であった。そして、その状態のまま、約40年、居続けたわけだ。

とあるピアノの先生のYoutubeで、「ピアノはメンタルが9割」ということを
言っていたが、今ほどそれを痛感しないことはない。

本当に、そうだと思う。

極端に言えば、メンタルさえ整えば、あとは正しい練習をコツコツ続けていけば、ピアノなんて誰でもうまくなるんじゃないか。そんな気がしてきた。

で、私がこれからやろうとしていること、というのは、まぎれもなくメンタルの改善、認知の歪みの改善である。
そのために、私は様々な角度からカウンセリングのサービスを受けたいと思っている。それらを、普段の練習に加えて、取り組んでいきたいと考えている。
それを通してどう変わるのか、はたまたあまり変わらないのか、、前向きに人体実験をするつもりでやろうと思う。

改めて、アガりに向き合う


そうは言っても、生きている以上、ピアノを弾いている以上、この「あがり症」というのは程度の差こそあれ、誰でも持っているものだと思うし、それを完全になくすことは、ムリだとも思う。

ただ、そことどう上手く付き合っていくか・・が大事になってくると思う。
一番いい状態は「アガッても、自分の実力が最大限発揮できる状態になること」なんだけど、理想論であるとしても、そこに近づければ素晴らしいと思うし、また絶対に「あがり症と戦ってはいけない」とも思う。

アガりをなくそうとしない。
抵抗しない。

私がYoutubeでいつも見ているマドモアゼル愛先生の言葉を借りると「アガッたまま、不安なまま、やるしかないのです」。

ここが真理だ、とも思う。

でもそれを踏まえて、改善できるところはやっていきましょうよ、それでメンタルが楽になるのなら、こんなにいいことはないではないですか、、と思うのである。

先ほど人の演奏を認めたくないということを書いたが、そういう心理状態からも解放されて、自分も他人も心から認められる、そういう精神状態の人になりたいとも感じた。やはりこのままでは、居心地が悪い。

ここまで読んでいただいて、実力不足をメンタルのせいにしてるように思われたかも知れないが、もちろん、演奏が安定しないというのは紛れもなく私のありのままの実力で、そこは大前提である。
その前提を踏まえた上で、今回は内容的にメンタルに絞って進めたかったのであり、実力不足が原因であるということは千も万も承知である。

だからこそ、車の両輪のように、実質練習とメンタル調整、どちらも大事であると考えるのである。

そして、あがり症の原因は、思いもよらなかったところにあるのかもしれない。
それを個人個人が見つけていくのは、大変だけど、自分を見つめる良い機会だし、ピアノだけではなく人生の他の分野においても生きやすくなるんじゃないか、、ということを考えながら、これからもピアノに向き合っていきたいと思っている。












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