わたしは、感謝ができない。
自慢じゃないが、私は驚くほど「感謝ができない」。
いや、したくないと思っている、という方が正しいだろうか。
「感謝?何に?何で?」という感覚がある。
「感謝できない世界選手権」なるものがあれば、私は世界トップレベルに君臨できるであろう。笑
「感謝で~す💗」というノリのブログや、本なんかで筆者が感謝を綴っているところ読んだ時・・など、白い目で見ている自分がいるし、
昔、占い師さんに「感謝が足りない(と上が言ってる)」と言われたこともあった。
(その占い師の実力云々は、敢えて言わない💦)
ただ、そんな私が、自分でもびっくりするような「感謝が湧いてきた出来事」があった。自分でも、びっくりした。
それは、「奇跡講座」という900ページ近くある本を読み始めたとき。
それはイエス・キリストの言葉をチャネリングして筆記されたものだと言われ、この世界の真実、本当の自己、真理、について書かれた本で、難解というか、あまりとっつきやすいとはいい難い本でもある。
そんな本を意を決して買った。
その難解な文章を読んでいて、こう思った。
「ああ、文字が読めるって、ホントに、有難いことだったんだ・・・」
「学校に行って当たり前に勉強してたけど、
学校に行く、というのも、当たり前のことじゃなかったんだ・・・」
と、ワーッと感謝の思いが湧いてきたのだ。
そして、よくアフリカの子供たちが学校に行けなくて、でも少しの間でもチャンスがあれば勉強している姿、
「勉強したくても、満足に勉強できない」という子供たちのことが、思い浮かんで、胸が熱くなった。
今でもこれを書いていると、目頭が熱くなってくる。
勉強、したいよね・・・させてあげたい・・・・!
という氣持ちになった。
それまで、学校なんて、ほとんど嫌な思い出しかなかったし、「学校というのは、優秀なサラリーマンを作るところなんです」ということを聞いて、妙に納得もしていた。
なので、学校というものに対して、ネガティブなイメージがものすごくあった。
だけど、「学校に行って、勉強ができていた」ということが、本当に、ウソでなく「当たり前じゃなかった」ということが、その時は肚落ちした。
ほんとうに、有難いことだったんだ・・・と、本氣で、思えた瞬間だった。
学んだからこそ、こうやって、字が読める、漢字が読める、意味が分かる・・・!ということの有難さを、しみじみと感じた。少し泣いた。
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「感謝しましょう」とは、よく言われる。
でも、そんなこと、言われなくても分かってるし、感謝を強要されるほど腹立たしいことはない。(←ここは強調しておきたいw)
だから今でも、この「感謝する」という態度、行動が、私にとっては、すごく抵抗感があるというか、「したくない」部類に入るものなのだ。
その感覚は、「感謝なんてしたら負け」という感じかもしれない。
でも、上記の一件で、「感謝」とは、自発的に思えてこそなのではないか、ということを強く感じた。
思おうとして、思えるものではないし、ましてや強制されて思えるものでもない。
強制されたそれは、怒りしか残らないだろう。
それを感じたのが、昨日、普段は感謝の正反対の感情を多く持つ人に対し、「ありがとう」という氣持ちが湧いてきたということがあった。
そしたら少し心がジーンとなって、少し涙も出て、温かい気持ちに少し、なれた。
・・そんなことがあったので、無理やり感謝を「アタマで」するわけにもいかないし、そんなの無理だと思った次第だ。
それに、絶対に感謝なんてできない時だって、あるのだ。
ただ、感謝が湧いてきたときは、その時はその氣持ちに素直になっていい。
だからこそ、奇跡講座の本の一件では、本当に、びっくりした。
何が起きたのかと思った(;^_^A
・・だからどんな感情であれ、その感情に素直になることが、ものすごく大事だと思った。
感情に嘘をつかないこと。あ、本音か。
(ここが何だかんだと一番伝えたかったことだ。)
そして私はそれをして来たから、ものすごく苦しかった。
でも、昨日の一件で、「感謝に目を向ける」方が、快適に生きられるかもな・・と、「ほんのちょっぴり」思えた、ということも、お伝えしたいと思いました。
でもまだ、感謝は、そうそう、出来なさそうです・・・
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