藤原 章生(ふじわらあきお Akio Fujiwara)

ジャーナリスト。福島県生まれ。北大工卒後、鉱山技師を経て89年より毎日新聞記者。南アフ…

藤原 章生(ふじわらあきお Akio Fujiwara)

ジャーナリスト。福島県生まれ。北大工卒後、鉱山技師を経て89年より毎日新聞記者。南アフリカ、メキシコ、イタリアに14年半駐在。64カ国で執筆。05年開高健ノンフィクション賞受賞 https://tinyurl.com/y5gcbfzr。「答のない話をやさしく面白く」がモットー。

最近の記事

藤原章生講演録:ブッカー賞作家、J.M.クッツェーとアフリカ (「アフリカの心をよむ 」-1- 於 渋谷パルコ、2001年7月7日 )

 (C) Akio Fujiwara, Namibia  自分のことをまず紹介させていただいた後、南アフリカの曲を流しながら、南アフリカの写真を見ていただこうと思います。その後に、きょうの本題であるクッツェー(J. M. Coetzee) とアフリカについてわかりやすくお話ししたいと思います。  おそらくアフリカというより、J.M.クッツェーのファンという方もおられると思うので、文学論になると私自身もよくわかっていないし、難しくなってしまいますので、後半のクッツェーの部

    • 三題話 日本人と死の距離

      リビア西部の砂漠地帯  (C) Akio Fujiwara, Libya  砂漠の洞窟で、40代の北欧の医者は焦っていた。2011年3月半ばの夕暮れのことだ。私はリビア西部の反体制派の町ナルートで東日本大震災を知り、せっかく潜入したのに日本では「リビア内戦」どころではなくなり、いくら書いても記事にしてもらえず、再びチュニジア国境へ戻るところだった。  密かにリビア領に入ったときは一人だったが、帰りは援助団体のその医師と行動をともにすることになった。国境の周辺にリビア政

      • 故郷など、ないのではないか

        南アフリカの旧トランスカイ地方(東ケープ州), (C) Akio Fujiwara,  former Transkei, Eastern Cape,  South Africa    小学校6年の秋だった。今はもうない、ねずみ色の立派な洋館、日比谷映画で「ビリー・ザ・キッド/21歳の生涯」(1973年)を見た。当時、親に放任され、ませた子どもだった私は、クラス中から長期にわたり無視、今でいう心理的ないじめに遭っていたのも手伝い、日曜になると3本立ての映画を見に銀座や新

        • カリブ世界の一滴(ひとしずく)

          ギニアビサウで (C) Akio Fujiwara,   Guiné-Bissau  地球儀や世界地図をぼんやり眺めていると、意外なことに気づく。といっても、それは自分にとっての話であり、専門の人には常識なのだが、「へえ、そうだったのか……」と、つい小躍りしてしまう。そして、その「発見」をもとに、あれこれと空想の世界に入っていく。  多かれ少なかれ、誰しもそんなところがあるだろうが、小学生のころから地図が好きだった私は、その癖(へき)が結構強い。  私は1995年から

        藤原章生講演録:ブッカー賞作家、J.M.クッツェーとアフリカ (「アフリカの心をよむ 」-1- 於 渋谷パルコ、2001年7月7日 )

          銃を頭に突きつけられて

          (C) Akio Fujiwara,  South Africa 南アフリカ日記 ① 「カチャ」というその音を今もはっきりと覚えています。私は車の運転席に座り、左隣にいる助手、チュラニという名の南アフリカの黒人男性と地図をながめていました。その朝は、遠くの村へ取材旅行をする予定だったのです。 右耳の方で「カチャ」という音がしたので振り返ると、小さなピストルが目に入りました。銃口は私の顔から50センチほどのところにあります。銃を握っているのは痩せ型のアフリカ人

          南アフリカの路上犯罪と、善なる人々

          ケープタウン近郊、テーブルビューの海岸からテーブルマウンテンをのぞむ(C) Akio Fujiwara  ​ 「やられたー。ハイジャックされた!」。台所で野菜を切っていると妻が駆け込んできた。「電話、電話。フライング・スクワッド(南アの緊急警察隊)」。そう応えた私も慌てたが、まずガレージ脇にある民間警備会社の「パニック・ボタン」を押した。  すると、玄関に取りつけられたサイレンが鳴り始め、通報した近所の警察署からもほどなくパトカーのサイレン音が聞こえた。意外に対応が早い

          南アフリカの路上犯罪と、善なる人々

          アフリカの女友達

          故郷に帰り、友人たちと民族衣装でポーズをとるタンタ=南アフリカの旧トランスカイ地方で (C)Akio Fujiwara  アフリカにタンタという名の女友達がいた。南アフリカの舞台女優で年は30代前半、よく響く太い声だが、歌わせれば、ややハスキーな高めのアルトで、 ♪ハー、アフリカー、ママー♪  と熱唱する、コーサ人の女性だった。  欧州系や中国系の女友達はいた。でも、アフリカ女性には、まだ男の所有物という感覚があるのか、対等な友人関係を築きにくい。恋人になるか、ただの

          貧しさがテロをもたらすのではない

          コンゴ民主共和国のキサンガニでルワンダ軍に訓練を受けるルワンダ出身の越境者たち (C) Akio Fujiwara   2001年9月、米同時多発テロの直後、貧しさがテロを生み出すというコメントをよく聞いた。裏を返せば、テロを鎮めるには貧しさをなくすしかないということだ。その通りかも知れない。だが、アフリカから日本に戻ったばかりの私には素直にうなずけないものがあった。貧しさと言えば、アフリカである。では、なぜアフリカに中東ほど派手なテロがないのか。貧しさを言うなら、アフ

          貧しさがテロをもたらすのではない

          積年の思い、再びーーBLMで

           新聞記者は単純なのもので、自分の原稿が大きく載ればうれしいが、ようやく出たかと思えば小さな扱いだと、いまいましい気分になる。最近、そんないまいましさを思い出した。  特派員としてアフリカ、ラテンアメリカ、イタリア、ギリシャをカバーしていたころ、私の主な仕事は読み物、企画記事を書くことだった。1回1000字ほどの長さで3回から7回ほど連載していた。もちろんニュース記事や大型企画を書くこともあるが、私は連載が一番自由で、好きなように書けると思い、このスタイルを貫いてきた。

          今からでも、あのころに戻れるだろうか

          木陰で一日がかりの形見分け=ダンザニア西部、ビクトリア湖近くの村で (c) Akio Fujiwara  私は1984年、23歳のときに初めて海外に行った。インド・ヒマラヤを登るためだった。その帰りにインド、ネパールの街や村を回ったのが、大きな転機となった。山よりも、もっと世界の人々の暮らしを見てみたいと思うようになった。  鉱山会社に就職前の86年に中米に行き、3年後に新聞記者に転じてからはアフリカ、ラテンアメリカ、そしてイタリアまで14年半、海外で暮らす機会を与えら

          今からでも、あのころに戻れるだろうか

          作家、クッツェー先生との出会い

          (c)Akio Fujiwara 1997  毎日新聞の特派員として南アフリカに滞在中、ひまを見つけてはアフリカの小説を読んだ。アフリカ文学を日本に紹介しようと、気になる作家を訪ね、インタビューを重ねた時期もあった。  だが結局、多くの作家を網羅する企画を放り出してしまった。最初に好きになった南アの作家、J・M・クッツェー(1940~)と並ぶような作家にめぐり会うことがなかったからだ。  性別、人種、国籍を織り交ぜ、10人の作家を取り上げる・・・。そんな枠に長く捕ら

          作家、クッツェー先生との出会い

          J・M・クッツェーと寡黙さ

          (c) Akio Fujiwara    J・M・クッツェー氏の作品群には、寡黙な人物がよく出てくる。  無人島のロビンソー・クルーソー(「敵あるいはフォー」八六年)、癌を宣告され死期を待つ老婆に寄生する死の使いのホームレス(「鉄の時代」九〇年)、自殺した息子の足跡を追い、息子の下宿に長居するドストエフスキー(「ペテルスブルグの文豪」九四年)。  九九年作品の「恥辱」では、レイプした主人公の娘の隣に暮らす黒人農民、ペトラスがそうだ。そして、「マイケル・K」の主人公Kも、

          立ち上がってきたアフリカ

           私の中のもやもやが少し晴れてきた。最近、アフリカのことをよく考えるからだ。  4月20日、ルワンダ人のティム(仮名)から連絡があった。彼は妻と10代の娘2人と妻の実家があるベルギーの街に暮らしているが、このときはルワンダから電話してきた。  母親に会うため、ひとりで首都キガリに帰ったところ、新型コロナウイルスのせいで国境閉鎖となり、ベルギーに戻れなくなったという。  今はネット回線があれば世界中どこへでも無料で電話ができる。彼は暇だったのか、私に電話してきて、「俺たちは

          耳の記憶、たまたまのアフリカ

                                                                                     藤原章生  暴動に巻き込まれたことがある。そのときの喧騒、人々の歌声、大合唱が耳から離れない。耳の記憶とはそういうものかも知れない。そのときの音が耳の奥でイヤホンから漏れ出る雑音のようにズーズーと常にくすぶっている。だが、当のこちらは声ひとつ発することができない。   「やめてくれ!」 大声で叫べば、どれだけ楽だろう。だが出

          耳の記憶、たまたまのアフリカ

          ジャーナリズムとは、変身すること

                                  藤原章生 コンゴ民主共和国で、藤原章生撮影  「いいね、あちこち行けて。我々が名前も知らない村まで行けるんだから」。  毎日新聞のラテンアメリカ特派員をしていたとき、コロンビア詰めの外交官からこう言われた。外務省職員の場合、省が決める「危険地域」に足を踏み入れることができない。だから、首都からなかなか出られないという話だった。確かに、気候も人も寒々とした官僚都市ボゴタだけでを見ても、この国のすべてはわからない。わかったつも

          ジャーナリズムとは、変身すること

          戦場報道のマッチョとうつ  藤原章生

           先日、高速道路のサービスエリアで何気なくCDの棚を眺めていたら、「思い出のフォークロック」という背表紙が目についた。曲目をざっと見ると、「或る日突然」などトワ・エ・モアの歌が3曲も入っていた。復古盤にしては値が高いと思いつつも買うことにした。いま音楽はネットで聴けるため、CDを買わなくなったが、きっと長旅で疲れていたのだろう。何か景気づけがほしかった。  運転しながら早速聴いてみると、ザ・ワイルド・ワンズの「思い出の渚」の次にジローズの「戦争を知らない子供たち」が流れてきた

          戦場報道のマッチョとうつ  藤原章生