カリブ世界の一滴(ひとしずく)
ギニアビサウで (C) Akio Fujiwara, Guiné-Bissau
地球儀や世界地図をぼんやり眺めていると、意外なことに気づく。といっても、それは自分にとっての話であり、専門の人には常識なのだが、「へえ、そうだったのか……」と、つい小躍りしてしまう。そして、その「発見」をもとに、あれこれと空想の世界に入っていく。
多かれ少なかれ、誰しもそんなところがあるだろうが、小学生のころから地図が好きだった私は、その癖(へき)が結構強い。
私は1995年から2001年まで南アフリカ、その後、02年から06年までメキシコで新聞社の特派員をしていた。アフリカでは50カ国、ラテンアメリカでは40カ国をカバーしたことになる、と偉そうなことを言っても、こちらはたった一人である。重要な国々に助手や友人がいても、とても一人で「カバー」などできない。基地からピンポイント爆弾のように、目的地に飛び、地図上では点や短い線に過ぎない、ごくごく狭い範囲を這い回り、再び基地に戻るという小旅行を繰り返しただけだ。年の半分は出張だが、とても各国を見ることなどはできない。
だからだろうか。食後や夜半、ボーっとしているとき、自宅や事務所の壁に貼りつけてある世界地図をぼんやり眺めることがよくあった。疲れているときは、「ああ、よくこんなに動き回ったなあ」と自分を慰める時間でもあり、また、地球の大きさを前に自分の小ささ、偏狭さを確認するという効果もあった。
そんな風に眺めていたとき、「あれっ」と思うことがあった。アフリカと南米は意外に近いことに気づいたのだ。
それは、単に私が無知だったに過ぎない。私はアフリカにいたとき、ガーナやギニアの旧奴隷館を訪ね、大海原を前に、「ああ、はるか彼方の新大陸へ運ばれていったんだ」とひとり感慨にふけることがあった。このため、自分のイメージでは、堀江謙一さんの「太平洋ひとりぼっち」ではないが、両大陸は遠い果ての果て、と思い込んでいた。
いや、もちろん海の話である。地図上でわずか1ミリであっても、人間にとっては果ての果てもいいところだが、神の視点で見れば、意外に近い。
たとえば、西アフリカのギニア沿岸からブラジルの東端までの距離は、東京からマニラに行くよりやや遠い程度だ。しかし、子供のころから、日本が中央にすえられ、米大陸が右端、アフリカが左端にあるメルカトル図法の世界地図を見てきたせいか、大西洋の距離感は私の盲点だった。
西アフリカ・ギニア西部の町ボケのフランス行政官邸跡。奴隷は地下牢に閉じ込められ、大河を経由し大西洋を渡った (C) Akio Fujiwara, Boké, Guinea
いずれにせよ、16世紀から、奴隷制が終わる19世紀末まで、アフリカ人たちは帆船の船底に詰め込まれ、食料もまともに与えられず数週間も航海を強いられた。陸地にたどり着く前に死んだ者の数は知れない。その距離が思っていたより短いからと言って、彼らの苦難が軽じられるわけではない。
だが、その意外なほどの近さが、もしかしたら、アフリカ人たちに、大きな錯覚をもたらしたのではないだろうか。地図から目を落とした私はそのとき、そう考えた。つまり、新大陸に渡り、白壁の奴隷館に閉じ込められた彼らは、まだ自分たちが、同じ陸続きの土地にいると思い込んでいたのではないか。
その後、奴隷商人の手で売られ、中南米、カリブ圏のサトウキビ農場や金鉱山へと連れて行かれた彼らは、もし、逃げ出すことができれば、生まれ故郷の村に歩いてでも帰ってやろう、と思ったのではないだろうか。
奴隷商人が世界地図を示し、「君たちはアフリカと呼ばれる大陸のこの辺りから連れてこられた。いまは、この別の大陸にあるヌエバ・エスパーニャと呼ばれる地にいる。もうアフリカには帰れないから、それを肝に命じておくように」と、ご丁寧に状況を説明したとは、思えない。それどころか、いくらアフリカ人が私たち日本人に比べ、雲泥の差とも思える高い言語習得能力を持ち合わせていても、到着早々、奴隷貿易で最も儲けた英国人の言葉や、新大陸で語られるスペイン語やポルトガル語を理解していたとは考えにくい。だとすれば、「俺たちは海の上をさまよった末、アフリカの土地に再び戻ってきたんだ、、いや、アフリカという言葉は知らずとも、「何日も歩けば帰れるはずだ」と考えた人がいても、不思議はない。
しかし、彼らは寄せ集めである。ある者はナイジェリア、ある者はガーナ、ある者は、南部アフリカのアンゴラから連れてこられ、一くくりにされている。同じアフリカ人であっても、使う言葉は違うため、コミュニケーションに相当苦労したはずだ。それが、のちにクレオール語を代表する、米大陸、カリブのさまざまな言語を生み出すことになるのだが、当初は集団での蜂起や逃亡もかなり難しかったはずだ。
それでも、アフリカ人たちは執拗に逃亡を試みた。それは欧州人的な価値で言えば「自由」を求めたことになるが、やはり、走り続ければ帰れるかもしれないという思いが、どこかにあったのではないだろうか。
2002年からラテンアメリカで仕事を始めた私は、こうした疑問を解こうと、文献を読み漁り、ブラジルやコロンビアの逃亡奴隷の村を訪ね歩いた。ブラジルの沿岸都市サルバドールから内陸に入ったときは、その景色にまず目を奪われた。
赤土の色具合、森の緑の重なり、薄黄色から黄金色、海老色の混じった下草が歌うようになびくさま……。何もかもが、数年前に私がひとりで旅をした西アフリカの小国、ギニアビサウを思わせた。まったく同じと言っていい。
80歳を超えた、逃亡奴隷が築いたブラジルの村の長老に会うと、「いやあ、こんな所に記者が、しかもアジアの記者が来てくれたるとは」と彼は本当に嬉しそうに迎えてくれた。小柄でやや小太りの好々爺はその辺りにいる子息、孫、ひ孫まで総勢20人ほどが見守る中、こちらの心を温めてくれるような笑顔で、私の問いに耳を傾けた。そして、こう答えた。
「いやあ、それはあると思います。この村を築いた私の曽祖父は仲間たちとサトウキビ農場から逃げて逃げて、何年も辺りを走り回り、ようやく諦めて、ここに落ち着いたのです。あなたの言うように、おそらく故郷に帰れると思ったのでしょう」
だが残念ながら、好々爺は、自分たちの先祖がアフリカのセネガルから来たことはわかっていても、どの村の出身かはいまだわからないという。
「でもね」と前置きし、好々爺はこんな言葉を私にくれた。
「あなたのような何の縁(ゆかり)もない人が、私の祖先の話を聞きに、こんな所まで来てくれた。それだけで私は嬉しい。そういうことに興味を持ってくれる。そう思うだけで私はきょうはとてもいい気分です」
アフリカに住むアフリカ人の場合、かつての日本人が「神武……」と歴代の天皇の名をそらんじたように、二十代の若者でも自分の一族の祖先を二十代くらいまで遡って言える人がいる。国家の長のことではない。自分の家の歴史にだけ妙に詳しく、7代前の○○という長は当時、こんなことをした、あんなことを語ったと話せるのだ。やはり、幼いころから、長老たちに一族の歴史を耳にタコができるほど聞かされる口承文化のもたらしたものだろう。
ところが、米大陸のアフリカ系にはそれがない。私はあちこちで老人から話を聞いたが、残念なことに、一族の記憶の大方は抹消されている。ガルシア=マルケスは『百年の孤独』で一族の百年を描ききったが、せいぜいその長さだ。もちろんこれはアフリカ系の物語ではないのだが。
コロンビア西部、チョコ県にある長寿の村に暮らす女性 (C) Akio Fujiwara, Chocó, Colombia
コロンビアの太平洋岸、人口の7割がアフリカ系というチョコ県に通ったときも、百歳を超える老婆ばかりの村でいろいろと話を聞いた。だが、「私の父はね、怒りっぽい人で、何も話をしてくれなかった。だから、奴隷だった先祖がアフリカのどこから来たかなんて、わからないの」と答える人ばかりだった。
奴隷制という忌まわしい過去のせいで、家系でアフリカとのつながりを追うことができない。そうわかった私は、アフリカ文化や信仰がラテンアメリカに伝播したのかという点に興味を移していった。
そんな折、ぼんやりと家の世界地図をながめていたら、カリブ海の大きさがちょうど地中海とほぼ同じということに気づいた。
「これだ。地中海世界ならぬ、カリブ海世界をやろう」と野望を抱き、かなり舞い上がって東京の新聞社に電話を入れた。すると例によって、上司は「ああ、いいんじゃない。やったらいいいよ。じゃあな」と素っ気ない。
次のテーマは決まった、絞り込めたと喜んだのもつかの間、イラク戦争が始まった。イラクとワシントン行脚を繰り返す上、ラテンアメリカ政治も追わねばならず、いつの間にか、野望は遠のいていった。
それでも時間の許す限り、カリブ海沿岸の人々の雰囲気、アフリカの影響を受けた音楽、踊り、宗教を追い求めた。でも、それは私が抱いた野望のほんのイントロダクションに過ぎない。いずれ余裕ができれば、アフリカに深くつながるこの世界の物語を編み出してみたいと思っている。
このほど出版された『ガルシア=マルケスに葬られた女』の舞台はカリブ海の沿岸である。舞台はアフリカ人が遡っていったコロンビアのマグダレーナ川だ。薀蓄も説明もあえて込めなかったが、人の語り口から、カリブの一滴(ひとしずく)を味わってもらえればと願うばかりだ。
(集英社の広報誌「青春と読書」2007年1月号?に寄稿)