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宙づりで生きる

小川公代『世界文学をケアで読み解く』(朝日新聞出版)を読み終えた。「ケア」という視点から様々な文学や映画が読み解かれ、紹介されており、全部読みたくなります。

読み始めたのは10月の中旬ごろ。タイトルに惹かれ、さらに英文学の話やハン・ガン作品にも触れられているようだったので興味がわき、夏の終わりに購入していたのだった。

この世が善と悪だけで分けられればどんないいだろうと何度思ったか知れないが、どうにか折り合いをつけて生きている。非常に個人的な話になるが、特にこの数ヶ月はどうするのが正解なのか、どうしてしまったら間違いなのかと散々悩んでいた(他人にとってはきっと些事だ)。

そんな状況の中でどうしてもできなかったのは、その出来事は悪である、もしくは善であると主張することだった。そしてその出来事を断罪することも、擁護することも無理だった。簡単に切り離すことができず、生皮を剝がされる心地だった。様々な意見を聞き、様々なことを考えた。おそらく少し老けた。それでも自分のなかではっきりとした答えは出せなかった。ふとこの本を手に取ったのはそのときだった。最初に読んだのは、実は「口をつむぐこと、弱くあること──あとがきにかえて」の章である。そこで「ケアの倫理」という言葉に触れた。

<ケアの倫理>とは何か。キャロル・ギリガンは『もうひとつの声で──心理学の理論とケアの倫理』において、「正しい」と思うことを「正しい」と声高に唱える<正義の倫理>の対抗原理として<ケアの倫理>を打ち立てた。

p.210

声を上げることができる人を尊敬している。この章でも触れられているが、その人たちが立ち上がらなければ今のような生活は送ることができていないはずだ。ただ、個々の理由から口をつぐむしかない人たちもたしかにいる。それはたびたび「弱さ」だと批判される。

ギリガンは、自他境界があいまいであることで葛藤を抱え込んで沈黙してしまう当事者の内面世界を理解しようと呼びかけているのである。彼女は、他者の声に耳を傾けてしまう営為を必ずしも“弱さ”であるとは考えない。<正義の倫理>の提唱者たちは、他者の意見に影響される女性たちは未成熟であると考えたが、ギリガンは、そういう女性たちこそ、<ケアの倫理>を実践し、他者とともに生きる人生を思い描いていると肯定している。

p.213

なお、引用箇所で女性とされているのは「ケアの倫理」がとくにフェミニストたちに誤解され続けてきたという話の流れによるものなので、もちろん性別は関係ない。

当事者かどうかと問われれば、自分自身が当てはまるのかまた悩むが、それでも善の側にも悪の側にも立てない状態というのは常に罪悪感に苛まれるものだ。だから「必ずしも“弱さ”であるとは考えない」という姿勢には救われた思いだった。ただ私の場合は、他者の目線を気にしている部分があるので“弱さ”なのかもしれないが。

また、イギリスの詩人ジョン・キーツの記した「ネガティヴ・ケイパビリティ」という考え方が存在することにも安堵したのだった。

ネガティヴ・ケイパビリティとは(中略)価値判断を留保する、あるいは二つの価値基準の間で宙づりになることという意味でもある。

p.47

価値基準を留保するというのは、常に考え続けなければならないということなので、これもこれで生きていくのは容易でない。悩んで立ち止まざるを得ないこともある。ただ、宙づりのままでも前に進めるという気づきはたしかに心を軽くする。

「正しさ」を持つことはもちろん大切だ。そしてその「正しさ」は本当に正しいのかと疑うこともまた必要なはず。別の視点をもって盲目的な思考を防ぐというのも、文学の持つ役割のひとつだろう。自分以外の人間も、自分と同じ人間である。その感覚は、読書を通じて人を知り、自分を知り、他者を知ることで得られることが多いのかもしれない。そして最終的にはやさしい世界になればいい……と悠長なことを言うにはあまりにも悲惨な出来事が起こっていますが、せめてその終わりに繋がってほしい。

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