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【歴史】佐々木道誉と赤田栄

さて、次に「蒲生野合戦」で登場した、道誉を逃すために身代わりとなって討死した人物の一人・赤田栄について焦点を当てて見ていきたいが、この人物と「太平記」の考察については既に唯一、長谷川端氏が『太平記の生成と守護大名』の中で触れられているので、これを参考にする。

↓蒲生野合戦については以下を参照。
【歴史】佐々木道誉と八相山・蒲生野の戦い|赤田の備忘録


・太平記諸本における表記
蒲生野合戦の経緯と概要については説明済みであるので省略するが、「天正本」において、道誉が追い詰められ自害しようとする場面の記述は以下のように描かれている。

此時道誉モ遁レシトヤ恩ケン、社前ニテ巳ニ腹ヲ切ラントシ玉ケルヲ、一家ノ氏族佐々木加治ノ豊前二郎左衛門尉カ傳代若党、渡辺党志田二郎左衛門尉栄重、只二キ馬ノ鼻ヲ双テ、我等打死仕テ後、自害候へト云モハテス、次ク敵ニ馳合テ、二人一所ニテ打死シケル其間ニ、道誉ハ其身無レ去、小脇山ノ麓ヲ廻テ、其ノ夜甲良庄ニ着ニケリ。

以上が「天正本」の増補部分であり、蒲生郡志で描かれていた「加治二郎左衛門尉」と「赤田二郎左衛門尉」に相当する、「佐々木加治豊前二郎左衛門尉の伝代若党」と「渡辺党志田二郎左衛門尉栄重」が見られることが分かる。

また、長谷川氏は「志田二郎左衛門尉栄重只二キ」とある所は、同系統の野尻本では「赤田二郎左衛門尉栄只二騎」、義輝本には「赤田二郎左衛門尉栄只ニ騎」のようになっているため、「赤田二郎左衛門尉栄・重只二騎」と読むのが良いのではないかとしているが、個人的には、供をしていた赤田氏に「栄」と「重」の二人がいたとすると、それは「只二騎」ではなく、加治氏若党と併せて三騎になるので違和感を覚えてしまう部分である。また、筆者の知るところでは、赤田氏の系図に「栄」は見られるものの「重」という人物は見当たらないため、おそらく「重」は誤謬なのではないかと考えられる。

また、「栄」は存在し、「重」は誤謬であるといえる証拠に墓の存在の有無が挙げられると思う。「佐々木道誉公墓」は甲良の勝楽寺にあり、その向かって正面斜め左に「赤田栄墓」(宝箆印塔)という墓が存在しているが、実在していればもう一基あって良いはずの「赤田重墓」は存在していない。これは裏付けといえるのではないだろうか。


・赤田栄の墓について
また、この「赤田栄墓」についても長谷川氏は考察を重ねているので続けて見ていくが、墓碑銘には以下のように文字が刻まれているという。

(表)
宗綱公に仕フ
左衛門尉
赤田栄墓

(裏)
観応二年九月十七日江州/蒲生野ニ於テ佐今木道/誉公ノ身代ト為リテ討死
※「/」は改行の区切り

裏面の事跡については「天正本太平記」の記述と相違ない内容となっているものの、「赤田栄墓」表面に見られる「宗綱公」という人物について長谷川氏は、以下のように述べている。

「宗綱公」は、佐々木盛綱の六代の裔宗綱に当ると思われます

長谷川端『太平記の生成と守護大名』42頁。

ここで佐々木宗綱について調べてみると、 宗綱は道誉の母方の祖父兼、父方の大伯父でもある人物で、その生没年は1248(宝治二)年~1297 (永仁五)年となっていることが分かった。

一方、赤田栄は蒲生野合戦が起こった1351(観応二)年に49歳で没したと伝えられるのでその生年は1302(乾元元)年であり、仕えていたとするには年代に無理がある。

この矛盾をどのように解釈すべきかと悩んでいたが、意外にもその答えは単純なものであった。というのも、以下は筆者が実際に現地へ赴き墓石と墓碑銘を撮影したものである。


【写真1】佐々木道誉の墓


【写真2】赤田栄の墓


【写真3】側に控えるように建つ佐々木道誉墓(右手前)と赤田栄墓(左奥)


【写真4】赤田栄墓碑銘の表面


【写真5】赤田栄墓碑銘の裏面


上記の【写真4】をじっくり見ると分かるのだが、長谷川氏が「宗綱公に仕フ」としていた箇所は実際には「源綱公十二代之(亡?)門孫」のようにあり、単に彼が渡辺党の出自であることを示している文章にすぎなかったのである。


・赤田氏と佐々木道誉の関係
赤田氏はもと越後国刈羽郡赤田保の地頭であったが、最初に赤田姓を名乗ったのが、栄の祖父・赤田兵衛尉源等という人物である。この等の四男・七郎備が栄の父に当たる人物で、近江にやってきたというが、その正確な時期については不明である。

しかし、「天正本」に見られる大きな増補記事の一つに巻十三「眉間 尺針鎮剣事」があり、これは1335(建武二)年に北条時行が鎌倉を占領した中先代の乱の時のことであり、ここでも赤田の名は登場している。

↓中先代の乱については以下を参照。
【歴史】中先代の乱の概要と佐々木道誉|赤田の備忘録

尊氏方は占領された鎌倉を取り戻すため、諸将を伴って出陣するが、その中に佐々木道誉も含まれており、相模川の戦いの際、道誉が佐々木大明神の化身の老翁に導かれて渡河する場面が以下のように描かれる。

懸処ニ、佐々木佐渡判官入道河ヲ前ニ当テ、敵ノ支ヘタルハ当家ノ遁レヌ所也、元暦ノ美談今ニアリ、不渡不可有トテ打立ケレハ、赤田・神保・吉田・箕浦、宗徒ノ物共ト四五騎、河 端ニ打莅テ我レ先ニ馬ヲ打入レント進ミケレ共(下略)

長谷川氏はこの「赤田」が巻二十九の「赤田栄・重」と 同一人物であるかどうかは分からず、赤田栄の墓についても多くの疑問が残るとしながらも、

佐々木氏傍流と佐々木京極家の代表的な被官の先頭に赤田の名を出しています。この部分は、「平家物語』巻九「宇治川先陣」に名高い佐今木四郎高綱の渡河と道誉の相模川渡河とを重ね合わせて描いているわけですから、ここに出てくる「赤田・神保・吉田・箕浦」の諸氏は、道誉にとって忘れられない人々です。

長谷川端『太平記の生成と守護大名』43頁。

とし、赤田氏が道誉と関係の深い間柄であったであろうことを述べている。


・道誉の身代わりとなり討ち死にしたのは栄ではなく備?

渡辺系図を見ると、南北朝時代の動乱に渡辺一族が多く巻き込まれていたことは明確であり、そのために系図によってそれぞれの事跡や名前が食い違っていることが見られる。そのような中で、「太平記」にあるような道誉の身代わりとなって討死したとされる人物が本当に「赤田栄」であったのかについては今一度再考の余地があるだろう。

というのも、一般に赤田氏を始めて名乗った赤田等は足利尊氏に属して1334(建武元)年に京都の六波羅合戦で討死したと伝わるが、その孫にあたる栄が尊氏と同年代の道誉に仕えて49歳で討死したというのは無理があるように感じるためである。

また、渡辺邦夫系図における真那井渡辺氏の系統を見ると、栄の伯父(父・備の兄)・の生没年は1299(永仁七)年~1346(貞和二)年であり、これが正しいのだとすると栄の生没年とされていた1302(乾元元)年~1351(観応二)年は、栄ではなく父・の生没年であると考えるのが妥当である。

等には六人の息子があったが、他に生没年が分かっている者はおらず、また等の生年も不明であるので断定することはできないが、栄の記述が太平記のみによるものであることを踏まえると、人物の名前を取り違えて記述した可能性は否定できないのである。

また、これら兄弟間でもおそらく尊氏派と直義派に分かれて対立していたと考えることもできる。同系図によると、等の三男・納は足利直義に属し、またその子二人(応・実)も直義の近習として仕えていたことが書かれている。

一方で、これまで見てきたような、栄は尊氏派の筆頭とも呼べる佐々木道誉に仕えていたことから当然尊氏派であった。また、直義派が南朝と手を組んだ時であろうか、等の五男・告が当主の時、北朝の上杉氏配下・斎藤氏に越後赤田城を陥落され滅亡していることから、多くの赤田渡辺氏が直義派(あるいは南朝)につく傍ら、四男・備の系統は尊氏派(北朝)に味方をしたために生き残ることができたのだと考えられる。

※一説に同族の瓜生保が南朝方であり、これに呼応したためとも言われる。

※赤田保地頭職を五男・告ではなく、六男・長とする系図もあるが1320年代の幕府における年始の弓行事においては赤田源太告が出席していることから、告が地頭職を継いだのだと筆者は推定している。(『御的日記』)


参考文献
・『近江蒲生郡志 巻9』弘文堂書店、1980年。
・長谷川端『太平記の生成と守護大名』2004年。

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