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自分をしばる

最近、とても心の調子が『悪い』です。
具体的な原因は、特に思い当たりません。
どちらかというと、何もかも順調進んでいるし、うれしい悲鳴があがるほど、忙しいくらい。
でも、不安で不安で仕方ない。
今やっていることが上手くいかなかったらどうしよう?
やろうとしていることが失敗して、みんなから無視されたらどうしよう?
そんな思念が浮かんでくるのです。

ふと、これって、何をやろうともどんな状況になろうとも、自分で悪いことを想像して不安に持ち込んでしまうのでは?と気づきました。

例えば仕事が順調で、周りからの評価が高くても、いつ失敗するがわからない。いつ周りから批判されるかわからない。という不安を作ろうと思えばいくらでも作れるのです。
いやいや、順調過ぎでどこにもツッコミどころが無い、という場合には、もしかしたら、空からミサイルが落ちてきて命が無くなるかもしれない、なんて、とんでもない妄想をすることもできます。

つまり、今安定している状態に、不安要素を加えようとしたら、どんなことだって考えられる。
常識的に考えれば実際に起こり得ないことでも、頭の中で妄想するのですから、無限大です。
そして妄想が強まれば、自分の行動さえも左右することになる。
失敗する要素が無かったのに失敗する方向へ動いてしまったり、失敗する前に投げ出してしまったり、いくらでも悪い方向に行動することができるのです。

思えば私は、本当に些細なことばかりですが、自分を失敗に導く行動をしてきたことが多いです。
例えば、学生の頃、ある個人競技をやっていたのですが、ある時何かが降りてきたように良い成績を出せるようになったのです。
身体がタイミングを覚えたのか、しばらくの期間、面白いように連続して好成績が出せるようになりました。
そこで、大きな試合に出場することになりました。チーム戦で、とても重要な役割を任されました。
しかし試合に出場することが決まってから、パタンと成績が振るわなくなりました。しかも同じような中の下の成績でとどまり続け、結果、試合でも中の下の成績に終わりました。
成績が常に安定しないのなら、まだまだ実力では無いと言えます。
しかし良い成績でとどまり続け、その後中の下の同じ成績でとどまり続けたことは、身体使いは安定していたということ。
問題なのは、「私はこんな試合に出られる身分ではないはず」と、自分を追い詰めたことだったのです。
「私の実力は確かだ。絶対成績を残せる」という自信さえあれば、そのまま好成績を残して試合に勝つことができた。
少なくとも、私を選手に推薦したチームはそれを期待していたはずです。
しかし、私はその期待に応えられなかった。いや、最初から応えたくなかったのでしょう。
この試合以降、私の信用はガタ落ち。実力も全く出せなくなり、私は卒業まで、チームのお荷物的な存在で終わりました。

信用を失くす行為は、私の劣等感をどんどん強めるのですが、何故かそれを望んでいるようなところもあるのです。
みんなが私のことを軽んじているとわかると、背筋が寒くなって、体に力が入らなくなります。
でもその弱っている自分を小気味よく感じている自分もいるのです。
その時、幼い頃に母と妹から軽んじられて、家族にとって異質な存在だと思わされてきた経験がリンクします。

ー 私という人間が、誰かの期待に応えることなどできない ー

当時も今も、無自覚にこの思考が私を縛っています。

人生には、モテ期というか、周りの注目や期待が集まる時期がやってくることがあります。
それが大舞台か日常かわかりませんが、複数の人に期待を寄せられる機会は、何回かやってくると思います。
しかし、そうした機会をことごとく無いものにしたがるのが、私の悪い習い性。
良い注目を浴びるというのが、耐え難い苦痛になるのです。

父も母も、自分のことで精一杯でした。
父も母も、子どもの私が生まれた時はまだ若く、これからの人生に期待をかけていた時。
子どもが生まれることで、それらが叶わなくなるという絶望感があり、だったら自分たちの夢を子育てに託してしまおうと考えたのかもしれません。
しかしまだ若い父母が考えた安直な夢ー子どもを上品なお嬢様に育てるーは、あっさり裏切られます。
思い通りにいかない子育て(当たり前ですが)を、私の性格のせいにして、私に見切りをつけることで解消していたのです。
見切りをつけられた私は、何も自己主張できない、大人の顔色を伺ってばかりいる、おどおどした子どもに育ちました。
若い両親は、それが自分たちの責任であることなど想像もできません。
自分たちの描いた『子ども像』から、ますます遠ざかっていく、陰鬱で恨みがましい目をした娘に、ますます嫌悪感を抱いたのでしょう。
父と母が、私のことを『諦めて』いることは、ひしひしと伝わってきて、私は身のやり場が無く、自分の存在を目立たなくしようと生きてきたのです。
子どもの本能で身に付けてしまった習性は、大人になっていろいろ理由を探して改善しようとしても、完全に抜けることはありません。
スターダムに上り詰めるような大胆な行動をするわけでも無いのに、自分が少しでも目立つことが耐え難い苦痛。
学生の時、大舞台で好成績を出し、みんなの期待を集めたら、私はもしかしたら耐え難くなってしまったかもしれません。
本能的に自分を守ったのかもしれませんが……。
結局、自分の存在を透明にすることはできない。
その上で周りの役に立つこと(試合で好成績を出してチームが勝利すること)を否定し、周りに迷惑をかけたり、嫌悪感を持たれることは、悪い目立ち方をしていることだということに、私は気付いていなかったのです。

目立ちたくないと引きこもっていたのに、あまりの不遇に耐えられなくなって発作的に犯罪を犯し、悪いことで有名になってしまう人の中には、きっと私のように、幼い頃、両親に勝手な期待を持たれて絶望され、『要らない存在』と思わされてきた人がいるのではないでしょうか?

誰が何と言おうと、親に掛けられた呪縛はなかなか解けない。
どうせ自分をしばるなら、自分がいちばん嫌悪する『良い注目を浴びる』苦行に、自分を追い込んでやれば良いのかもしれませんね。



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