詩表現の不思議について
論理的な言葉と詩表現はどちらも言葉を使っているわけだが、
読んだ人に与えるイメージ、感覚はまったく異なる。
同じように言語を用いているのに、性質に違いが出るのはなぜなのか。
言葉にはおおまかに二つの性質があると思う。
例えば、どのような種類でもいいのだが、
ひまわり、バラ、あじさい、などは
それぞれ別の種類のものだ。
しかし、花弁があり、茎があり、葉があり、葉緑体があり、など
類似点が見受けられ、共通項があると判断できる場合、
ひと括りに「花」と言うことができる。
逆に共通と見出すことのできない差異があれば、
差異に重点を置いて対象を分けて考える。
つまり、言葉はおおまかに対象を括る性質と、対象を分ける性質がある。
抽象と具体、演繹と帰納と呼ばれている類のものはこのことだろう。
その括る性質と、分ける性質を使い分けながら
外部の環境との対応関係を考えるのが
「論理(ロゴス)」ということなのだと思う。
それでは同じ言語を使いながら表現をしている
「詩表現」は何をしているのか。
詩表現も言語を使っている以上、
対象を括る、対象を分ける性質は変わらないだろう。
しかしその分け方、括り方が異なるのだと思う。
例えば、詩表現の「言葉の括られ方」というのは、
具体的なものが論理的に高次になり抽象化していくのとは、
違う括られ方で括られる。
具体的なものが抽象化していく時には、さきほど「花」で例にしたように
別々の種類のものに共通の特徴や、類似点が見られ、
一つ一つ順を追って
同形質と判断できる場合に括れるわけだが、
詩表現における「括られ方」は、
そういった厳密な判断で括られるわけではない。
個人的な誰にも共感を得られないかもしれない共通項をある要素と
それとは別の要素、
ある言語と、それとは別の言語に見い出して表現するような行為であり、
しかし、個別的な括り方なのにもかかわらず、それがある実在感を帯び、
多くの人に膾炙していく現象が起きる表現と言えると思う。
例えば、「厳しい人」「怖い人」を「鬼」に例えることがある。
「鬼のような人だ」と言ったりする。
しかし、「鬼」そのものが日本の神話や寓話が創造される過程で作られた
キャラクター(喩)であり、それが人の印象や性格と関連付けられて
また喩えられている。
論理的に特徴や証拠を積み重ねていって、
鬼と人を結びつけられるわけがないのだが、
物語や会話で「鬼」の例えを普通に使っている。
論理は、自分と外部の環境を自他対立的に捉える。
主観と客観を分け、客観的に抽出できる領域を積み上げていく。
しかし、詩表現は、自他対立的には捉えない。
日本における和歌が典型的だが、
情景の描写がそのまま心情の描写になっている
ような感覚で表現していく。
つまり、自分と外部の環境を対立的に捉えるのではなく、
自分と外部の環境が混在し、どこまでが自分で、どこまでが環境か、
あいまいな捉え方をする。
論理が対象を二元論的に捉えているのに対して、
詩表現は対象を一元論的に捉えている。
二元論的な言葉の括り方と、分け方があり、
一元論的な言葉の括り方と、分け方がある。
「一元論的な分け方」というのは、変な言い方だが、
「明確に分けられるわけではなく、便宜的に分けているだけで、
一つにつながっているという前提で分けているような分け方」
と言えるだろうか
論理とはまた別の方向として、イメージや感触の言葉が作られ、
積み重ねられていき、さきほど例に出した「鬼」のようなイメージに
ある種の重みづけがなされ、
それによって論理的な言葉と詩のような表現があるというのは
なんとも不思議な現象だと思う。