見出し画像

暇と向き合う「暇と退屈の倫理学」part6

 今回の投稿では、書籍『暇と退屈の倫理学』の第5章について触れる。
 この書籍を読む際の私のテーマは「今、暇と退屈を解きほぐしたとき、退屈の方の輪郭はどうなっているか?」という問いだ。
 引き続き考えたことを記録として書き起こす。

 part .1から読みたい方はこちらへ。

https://note.com/akashi_yama/n/n2c11c2a5be81

□退屈の三層分析

 さて、第4章ではゴールなき個性主義と別れを告げてきた。
 第5章では、「退屈って一言にいうけど、いろいろあるくない?」という、かゆいところに手が届く内容である。

 本書ではハイデッガーによる退屈の分析が紹介されている。退屈は次のような3つの深さに分けて分析がなされている。

  1. 何かによって退屈させられる

  2. 何かに際して退屈する

  3. なんとなく退屈だと感じる

 それぞれについて例示がなされているわけだ。
 このように一つの単語について、分類していく思考方法はよいプレゼンの方法に思われる。しかし、ビジネス研修などでグルーピングだのMECEだのと聞かされると洒落臭いと感じてしまう。この思考方法に対し、本を読む中で自然と良さを感じられたことは、非常に気分が良い。

□空虚放置と引き止め

 「何かによって退屈させられている」ことの例として、列車を待っている場面があげられる。

 列車の到着時間は自分のいうことを聞いてくれない。それによって列車を待つ時間が発生している。このように、列車を待つ間の何もない駅舎という空虚な時間へ放置されながらも、コントロールできない列車の到着時間に引き止められている。

 これが、「何かによって退屈させられている」という退屈の第一形式だ。

 では、「何かに際して退屈する」とは何か。
 例示として、「パーティーに参加している場面があげられる。
 
 パーティーに際して退屈しているようにみえるが、これはパーティー自体が退屈に対する気晴らしなのだ。
 招待されたからという理由で、付和雷同に参加したパーティーでは自分自身の中に空虚が生じる。

 さらに、自分の行動は自分で選択しているかのように見えるが、それは時間の過ごし方を「放任」されているだけで、根源的に時間から「放免」されたわけではないという。

 これが、「何かに際して退屈する」という退屈の第二形式だ。

 私は列車の到着を待つ間何をしているか思い返してみた。
 列車の到着時間を再確認するのは勿論だが、スマホを見ている姿が浮かんだ。トレンド記事を見たり、タイムラインを追ったりしている。

 タイムラインを追って、他の人がいいねを押しているものに同調していいねを押すかどうか考えている時間というのもオンライン上のパーティーに参加しているだけに思えてきた。 

□なんとなく退屈だ

 第三の形式は「なんとなく退屈」というもの。
 そしてこの第三形式は最も深いところにあり、それが派生して第一や第二形式として現れるのだという。

退屈さが深さを増すにつれて、気晴らしは次第に力を失っていく。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.274

 なんと絶望的な特徴なのだろう。
 気晴らしが効力を失ってしまえば、悩むしかないではないかなどと考えながら読み進めると、次のような気になる記述があった。

退屈に耳を傾けることを強制されている。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.274

あらゆる可能性を拒絶されているが故に、自らが有する可能性に目を向けるように仕向けられている。

「暇と退屈の倫理学」國分功一郎 新潮文庫 p.278

 驚いた。この本の読者は多かれ少なかれ退屈について悩みながら読んでいるだろう。私もその一人である。

 その人に対し、「第三形式のなんとなく退屈というのがあってね……」と紹介してくる。巧みに本の続きに惹きつけられてしまった。

□おわりに「自由と可能性」

 ハイデッガーの退屈に対する方針は、万人向けではないかのように思える。その方針とは次のとおりだ。

 退屈に耳を傾けると、自らが有する可能性に耳を傾けることになる。
 そして、自由であるという事実に辿り着く。
 あとは決断によってその自由を発揮するのだ。

 難しい。私は退屈にまみれつつ、自分に可能性など感じていないのだから。

 退屈に対する見え方はクリアになりながらも、希望は見いだせないままの第5章であった。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集