何故、私は、piasuなのか。
最近、悲しいことが立て続けに起こっていて、正直辛い。
そんな中、「結局、誰のことも頼れないんだなあ」と思ってしまった出来事があって、ちょっと苦しんだ。
結局、「完璧な人間」なんて、あたり前だけれどもいない。
私が大好きな、私が美化している芸能人たちだって、多分だけれど、実際会って一緒に過ごしてみたら、いや〜なところもあるんだろうなあ、とかも思った。
私は、幼い頃から、人が悪いことをしているのを目撃すると、すごく恐怖を感じる子どもだった。
軽い悪戯なんて、子どもだったら、誰だってやる。
先生の悪口だって、みんな普通に言うだろう。
でも、私の場合、それらを見てしまうと、怖い!と思ってしまう。
誰のことも信頼できないんだなあ、とか、そういう鋭い痛みを伴った恐怖。
これは、いまだに慣れない。
人の悪口は、自分も100%言わない訳ではない。
でも、人が人のことを噂している姿は、どうも慣れない。
だから、私は、自然と「いい人が集まっている場所」に属するようになった。
そのせいか、人が悪いところをしている場面を目撃することがなくなった代わりに、人が悪いことをする、ということへの免疫がどんどんなくなってきている。
信頼している人が、人へ酷いことをしていたら、「もう付き合えないな」と思ってしまう。
明らかに、自分を傷つけてくる人も、なかなか許せない。
でも、「完全にいい人が集まっている場所」なんて、この世にはないんだと思う。
冒頭の言葉だが、「完璧な人間」なんて、この世にはいない。
私の名前は、piasuだ。
piasuにした理由はたくさんある。
そのうちの一つに、「人のいい子でない部分も受け入れて、怖がらないようになりたい」という意味も込められている。
ピアスって、わからないけれども、自分にとっては、「いい子」がするものではないイメージがする。
大人になる時、大人への反抗にも使われる物じゃないかなあ、と思う。
私はいつだってどこに行ったって、「いい子」と言われる。
私はどこに行っても、「いい子」でありたかった。
それは、人の過ちを認めることができない、人の悪い部分を怖がる自分が作った「いい子」だ。
そんな自分にコンプレックスもあった。
ハンドルネームをピアスにすることで、なんだか自分も「いい子」と言われる自分から脱却して、結果的に、みんなの怖い部分も受け入れられるように強くなりたかったんだと思う。
piasuという名前にして、もう一年ほど経ったけれども、いまだに私は強くはなっていない。
このハンドルネームは好きだ。
好きだけれど、私の人生を何か変えてくれただろうか。
「自分を変えたい」一心で、名付けたんだけれども。
やっぱり、人の悪い部分を見ると、怖くなる。
今度は、耳に大きなピアス用の穴を開けようかなあ、とも思っている。
そうしたら、本当の意味で、強くなれる気もする。
でも、なんだか、もっと違う努力が必要なんだろうなあ、って心のどこかでは気づいている。