悲しみのない世界であなたを愛せるかな
夏の夜に聴きたくなる曲がある。
特に1人で夜道を帰る時なんかに。
その名も『花鳥風月』。
空を見上げて、星を見つけると嬉しくなる。
私の家はそこそこの都会にあるものだから、星なんて見えても2、3個。
そんな数少ない星を見つけて私の未来を想う。
いつかこの星を見逃してしまうほど、忙しく日々を送ることになるのだろうか。
ほんの一瞬、帰り道に空を見上げてみることも忘れてしまうのだろうか。
そのことに気がついた時、私はどう思うのだろう。
忘れずにいたいと思う。
空を見上げることも、星を見つけた感動も、大切な人と一緒に見たあの星空も。
私にはどうにも、わざわざ自分から悲しもうとする傾向があるように思う。
例えば、幸せな時。
そうだなあ、大好きなアーティストのライブに行った時とか。
大好きな曲を聴いて、この目で彼らを見て、ああなんて幸せなんだろうと思う時、同時に悲しいとも思っている。
それはライブが終わってしまうことについてだったり、どれだけ私が彼らを好いていようともその思いが彼らに届くことはないことだったり。
純粋にその場を、その瞬間を楽しめばいいのに、幸せと同時に悲しみも感じようとしてしまう。
わざわざ悲しみの種を手繰り寄せて、その時の幸せの隣に植え付けるのだ。
他には、大好きな人と一緒にいる時。
この人と出会えてよかった、ずっと一緒にいられたらいいのにと思う時、同時に一緒にいられなくなった未来のことを考えて悲しくなる。
人の心は移り行くものだし、未来のことなんて誰にもわからない。
そんなことを考えて、“ずっと“なんてないよなあと思って、それで悲しくなる。
「そんなこと考えてもしょうがないよ」、「今を楽しめばいいじゃん」なんて周りの人には言われるし、私もそう思うんだけど、どうにもうまくいかない。
思えば私の「幸せ」は常に「悲しみ」とともにあったかもしれない。
意外とみんなもそうだったりして?
そもそも「幸せ」と「悲しみ」って対極にあるものなのかな。
案外近い存在なのかも。
いずれにせよ私は、悲しみを通じて幸せを享受してきたように思う。
戦争が存在するからこそ、平和をありがたく思うことができるように、
悲しみが存在するからこそ、私は幸せを感じることができるのだと思う。
でも、そうであっても、
たとえ「悲しみ」という感情が私の「幸せ」に必要なものであったとしても、
「悲しみ」はあくまで「悲しみ」なのであって、どうしてもマイナスな感情なのであって。
そこで『花鳥風月』の歌詞は私に問いかける。
「悲しみ」のない世界だったら、人は人を愛することができるのだろうか。
マイナスな感情は要らない、と「悲しみ」を切り捨てたとき、私は何を感じることができるのだろう。
私が恋人のことを「好きだな」と思うのは、二人が別れた時のことを想像して悲しくなった時である。
もし別れたら、を考えて悲しく感じた時に、私は恋人のことを好きなんだ、と実感する。
これは「悲しみ」がこの世に存在しなかったらできないことである。
悲しみがなかったら。
大切な人を失ったとき、何を思えばいいのだろう。
そもそもどうやって誰かを大切に思うようになるのだろう。
悲しみがなかったら。
私はあの日、何を感じることができたのだろう。
2人で車を走らせて星を見に行った日。
私は空を見上げるあなたの横顔を盗み見ながら少し泣いた。
好きな人と星空を見に行くなんてずっと夢見ていたことだったのに、いざその瞬間を迎えたらなんだか胸が苦しくなった。
あと何回、こうやってあなたと夢を叶えられるのだろう。
もし万が一、この先長く一緒にいられたとして、あなたが先に死んでしまったらどうすればいいのだろう。
こんなに悲しくなってしまうのなら、どうして出会ってしまったんだろう。
そんなことを考えて、なんて幸せなんだろうと思った。
全部全部、あなたには口が裂けても言えないようなことだったから、涙は隠した。
あの夜は月が出ていなくて、代わりに溢れてきそうなほどの星が見えた。
私はあなたを愛すると同時に憎んでいるのかもしれない。
一緒にいられて嬉しい、一緒に幸せになりたいと望みながら、
同時に
どうして出会ってしまったんだ、どうして私なんかを好きになったんだ、とどこかで思っているような。
でも「愛する」ことと「憎む」ことも、そんなに遠くないところにある気がする。
あの夜を思いながら、『花鳥風月』をBGMに帰る夏の夜。
この曲を聴き続ける限り、私は夜空の光を忘れないと思う。
おわり
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?