父が娘に語る 美しく、深く、とんでもなくわかりやすい 経済の話
こんばんは、あかっぱです(^^♪
今回は、「父が娘に語る 美しく、深く、とんでもなくわかりやすい 経済の話」という本を読む機会があったので、このことについて書いていきたいと思います。
この本は「経済」についての本です。
ズバリ、あかっぱの超苦手分野です!
「経済」「政治」
大事なのはわかるけど、そういうのは専門家に任せて・・・
となってしまうあかっぱですが、今回読書会のテーマだったので初めて、くらいにこうした分野の本を読み、初めて知った経済の「本質」がたくさんありました。
(正直、今のあかっぱにはわからないことも多くありましたが)
本の詳細は別の方に譲るとして、今回はあかっぱがこの本から一番感じたことについてまとめていきます。
なぜ「お金」は生まれたのか?
「なぜお金は生まれたのか?」
そう尋ねられたらあなたは何と答えますか?
この本を読むまでのあかっぱは何にも答えられなかったと思います。
この本を読んだ今、ほんの少し「経済」の本質を垣間見て、解釈したのは
「余剰」が生まれたからお金ができた
ということ。
「余剰」が生まれるまでは、「シェア」の概念しかなく、必要な分を取って、足りない人がいたらシェアする、そういう文化でした。(日本で言うと縄文時代まで)
しかし、余ったものを蓄える(所有)の概念が生まれたことで、それを記録するための「文字」が生まれ、それらを管理するための「お金」や「借金(債務)」、そして「格差」が生まれ、それをカモフラージュするための「宗教」が生まれた、とざっくりすぎるくらいには、そんな感じです。
つまり、「余剰」が今の、経済社会の起こりなのだと、あかっぱは解釈しました。
「余剰」によって生まれたものは・・・
「余剰」のおかげで、「文字」が生まれ、「文化」が発達し、今の世界がある
そう考えると、「余剰」という概念が存在しなかったら、今の社会はなかった、極端なことを言えば、ずっと縄文時代のままの生活をしていたかもしれません。
しかし、逆に、今の社会になったからこその苦しみもあります。
それは「格差」です。
もしかしたら、「余剰」の概念がなければ、ずっと「シェア」の概念しかなく、経済格差は生まれなかったかもしれません。
同じことはあらゆるところに
「余剰」があるから苦しみも発展や楽しさもある
同じことはあらゆることにつながることだなと思います。
例えば、通販サイトでバッグを買おうとしているAさんがいたとしましょう。
Aさんは、一つのサイトでBというバックを見て、「これがいい!」と思い買うとします。つまり、Aさんが得た情報は一つのサイトだけです。これを必要最低限の情報しか知らない状況としましょう。
それに対し、もしAさんが、2つ、3つのサイトを見て回るうちにBやCというバッグを見つけたとしましょう。そうするとどうなるか・・・
「悩み」
が生まれます。
「金額的にはAのほうがいいんだけど、見た目的にはBだし。でも、総合的に見るとCかな・・・」
と。
つまり、Aさんは「情報」を多く手に入れた(「余剰」を手にした)結果、「悩み」(「苦しみ」)を引き受けてしまったのです。
「悩み」があることは悪いこと?
では、Aさんは複数のサイトを見ない方がよかったのか?
そうではないとあかっぱは考えます。
なぜなら、Aさんはこの先、もしかしたら、意図的でないにしろ、BやCや、はたまたEやFのバッグと出会ってしまう可能性があるからです。
「そんなことを言ったらきりがないじゃないか」
その通りです。
でも、それでも、自分が納得する限りで「複数あるけど、これが自分にとってはいい!」と決めたものと、ある意味盲目な状態で決めたものでは、そのあとのとらえた方が違うと思うのです。
また、ポジティブに考えれば
「どれがいいかな?」と悩む過程もまた「楽しむことができる」
これは、一つのサイトだけで考えていた時には得られなかった「楽しさ」です。
つまり、「苦しさ」があるからこそ得られる「楽しさ」(喜び)もあるのだと思います。
そして、さらに思うのは、今は情報化社会。
自分が意図せず、情報があらゆるところから入ってきてしまいます。
そんなときに大事になるのは、「自分はこれにする!」と「自分で決めること」
そう考えたうえで、話を本題に戻すと、
「余剰」は今の世の中すでにあって、変えられない。
だからこそ大事なのは「余剰」から生まれた「苦しみ」も「楽しみ」も味わうこと。
そのためには「自分で決める」ことが大事なのだと、あかっぱは思います。
何事も「よい面」と「悪い面」があります。
どちらが「よい」、「悪い」ではなく、
「自分にとってあっている」「あっていない」
と、自分のものさしで考え、判断できるようにしていきたい、とこの本を読みながら改めて思いました。
最後までお読みいただきありがとうございました。