差別について気づいたこと

今朝の情報番組「グッとラック」で
黒人暴動のニュースの時に流れていた、
黒人三世代の討論の動画を見て、
泣けてしょうがなかった。

「今までずっとずっと抗い続けたけれど、
何も解決していない。
暴力では解決しなかったんだ、
次の世代は力があるんだ新たな道を開いてくれ!」

という叫びに泣けた。


これからの時代、
「差別する・される」が同時に無くなっていくことを本当に願う気持ちです。

「差別する
差別される
の両方が無くなっていく」

って意味解りにくいと思いますが、


いつか投稿しようと思っていた記事を投稿します。

私が差別に関して
そう思うに至ったことを書いています。
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差別される意識が私の中から紐解かれていき、
一つ無くなった。

世の中の差別が私の一つ分だけ無くなった。

差別される意識が無くなると、
差別する対象が無くなるので、
差別がなくなる◎


私は「差別されている」という意識を
潜在的に持っていて、
自分でも気がつかないほど傷ついていた。


世の中の差別発言に無意識的に敏感に反応し、嫌悪感を抱き、
その嫌悪感でもって差別する人に憎しみの感情をもち、
外にはそんなに大きく現していなかったけれど、
心の奥底には激しい憎悪の感情を持っていた。

差別される意識が私に根づいたのは、
小学生の時、父親がいないことをクラスメートにバカにされたことがきっかけだったらしい。


らしいというのは、自分で覚えてないから。


母から聞いた、
私はそれを言った男の子に教室の椅子を投げたらしい。。。

覚えてない。。。

それって結構大事件やと思うのに、
全く覚えてない!

これ、深く傷つきすぎて記憶から消したから。


でも、潜在意識をたぐっていくとその思いは出てくる。


「父親がおらんって
バカにされる存在なんだ!!」
ってガツンと心に来たのを感じた。


子供心に、「世間では父親がおらんってバカにされるようなことなんや」って思った。


私は母に、私と母がそんな風に「バカにされるような存在」だということを知られたくなかった。

父親がいないことをカバーするために必死に生きる母親をみていた私は、
「私達二人はそんな風にバカにされる存在だ」
と、母にばれないようにしなければ!
と心に思った。

何が悲しいって、
母親の努力をバカにされているように、
感じたからだった。

グッと感じていくと、
ふと、

「それを言った人は、私たち二人が必死に生きてるなんてこと知らないよな?!
私達のこと何も知らないよな?!
だから、母親のことをバカにしてるんではないわ!

うちらの中身を知らずに、ただ父親がいないということをバカにしてるんや?!

なんやそれ~?!」

と気づいた。

私が一番許せなかったのは、
母親をバカにされることで、
それがほんとに激しい憎悪と怒りの感情を、
産み出していた。
そうではないことが分かって、
それらの感情が、
ブラックからホワイトへと変化していった。

差別する人達への憎しみというふうに広がっていた憎しみが、一つ減った。
それにともなって差別対象が一つ減った。


こんな減らしかたもあるんか!
って発見の気分になった。

差別される意識を昇華してあげると、
差別される人から差別の部分を除くことができる。

そしたら、差別に対する強い衝動的な感情は無くなる。
差別されても、自分の核の部分を差別することは誰にもできないし、差別される存在なんて
どこにもないということが腑に落ちる。


差別するとされるってワンセットやから、
「差別する意識」を無くすことと、
「差別される意識」を無くすことと、
どちらも差別を無くすことに
つながるのではないかと思う。

どっちから無くなってもいけそう。


差別は自分全てを否定されてるように感じて、言葉ではいい表せないぐらいの、
激しい感情と傷が深いところにできていた。


ただ、しているほうは軽い気持ちだったり、 浅い理由でバカにしていることがほとんどだと思う。
そこに人の根幹をバカにするほどの理論はない。

浅い理由って例えば
貧乏とか国籍とか、家柄とか、
表面上、字面上をみてバカにしてる。

だから極端に言えば、言葉=差別対象になっている。


その言葉を見て、聞いて、条件反射に差別が出てくる。

人=差別じゃなくて
言葉=差別

みたいな感じ。

差別は人の根幹部分には及ばない。及べない。私の感覚の中ではそもそも同じ領域のものとは思えなくなった。

何度も何度もこの気持ちにぶち当たって何回も思いをたどってやっとここまできた。
ほんとに、根深い。


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