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もう秋だ!昔話を語ってみましょう編。
誰かに語りたくなる昔話について、お話します。
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さて以前、妖怪について語った際に「昔話」について民俗学的見地から深堀する必要を感じましたので、今回はその実践となります。
はい、皆さんお待ちかねの昔話解説でございます。
例の如く触りの触り、重要な箇所を選りすぐって、端的に、成る丈わかりやすくお話しようと思いますので、今回は以下の三点に沿って解説を試みたいと思います。
昔話と伝説の違い
昔話の類型
特殊な具体例としての〈桃太郎〉
ただしこれは個人的な課題でありますが、妖怪の時よりも一層理解が及んでいない&勉強が進んでいない分野でありますので‥‥‥。
あくまでも今回は導入として参照できる程度の内容に留めておいて、詳細な個々の類型・事例研究については、また近日中にやっていきたいですね!
ひとつ目、昔話と伝説の違いについて。
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いざ問われてみると、わかるようでわからない両者の違い。
それもそのはず、昔話・伝説・神話はいずれも口伝えの散文物語としてはじまり、相隣接する領域をもっていて相互交流が認められるため、それらの混同も甚だ多いのです。
端的に両者の微妙な差異のイメージを掴みたいのであれば、栁田国男による不朽の名著『遠野物語』を一読することをお薦めいたします。
同書に所収されている物語はその大半が伝説であって、昔話は4話しか登場しません。
(150話以降の「山姥」3話と「紅皿欠皿」1話のみ。)
ここで更に詳しく昔話への理解を深めるために、両者の重要な差異を取り上げるとすれば、以下の3点となるでしょうか。
伝説は人がこれを信じるが、昔話は必ずしも信じる必要のない柔らかなニュアンスがある。
昔話は一定の形式を備えるが、伝説には定まった形式がない。
伝説はかつて明確に歴史として機能していた時代がある。
個別に考察を加えていきます。
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1.伝説は人がこれを信じるが、昔話は必ずしも信じる必要のない柔らかなニュアンスがある。
伝説が主観的には真であり、客観的には必ずしもそうではないのに対し、昔話は主観的にも客観的にも真ではありません。「自分で見聞きしていないことだけれども~」というニュアンスを強調する点では共通しますが、昔話においては、語る人も聞く人も、語られるこれらの事実を真実とは考えません。
そして、それは現実に起こりえない空想の世界であることが重要で、いずれも奇蹟的世界を取り扱った短い物語形式となっています。
そういうわけで、昔話はおかしさと珍しさで重んぜられて、その魅力は地域を問わず通用するものとなりますが、同時に、我が国の場合は極めて土着的で地方的な色が強い点も特徴です。
また、語り手は幼い聞き手を喜ばせようと努めること、とりわけ新奇な話を語りたがるのがふつうでありますから、彼らの気に入る内容に整え、わかり易い表現や言葉を用いるようになっていき‥‥‥
すなわち、古い話を新しい世代に合わせて語り替えられていく過程で、珍妙過ぎる筋書きは納得されやすいストーリー展開へと替えられてゆき、本来の昔話像が一見して掴みにくくなります。
たとえば、〈兄と弟の諍い〉は〈隣人同士の争い〉へ、〈蛇婿の愛を受け入れる女〉は〈異類の愛を拒む女〉へと作り替えられていきます。
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2.昔話は一定の形式を備えるが、伝説には定まった形式がない。
昔話には定式があり、核心となるモチーフを中心に構成されていることを聞き手も理解しています。
最も特徴的なもののひとつは初めの一句――即ち『今昔物語集』の名を由来せしめたところの「今は昔」という種類の一句であります。
「昔々ある処に」「とんと昔」「先ずある処に」「あったてんがの」「むがすあったずもな」等々というが如き種類の言葉が地方ごとに根付いており、グリム童話の"Es war einmal""In den alten Zeiten"「今よりずっと昔のこと、遠いアラト山よりもっと遠い国で」「ずっと昔のこと、牝鶏に歯が生えていた時代に」という句であっていずれの国の昔話にも共通した形式となっているものです。
同様に「これで終り」とい意味の結句が初句と同様に必ず末尾につくものであって、「語っても語らないでも候」「これで市がさけた」「昔こっぽり」「どんどはれ」などという句が多数の地域的語彙をもって存在しています。
①に通じますが、これは話の内容を現実から引き離さんとする意図に出た言葉であって、更に聞き手は必ず話し手に相槌を打たなければならなず、話し手が定式を外すと訂正しなければなりません。
一方、伝説は同じ話し手であっても、環境と聞き手が違うことによって言い換えができます。
詳細は次に譲ります。
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3.伝説はかつて明確に歴史として機能していた時代がある。
伝説は時と処に制限され、具体的な山、木、家などの事物や歴史的人物と結合しており、真理であろうとします。
言い換えれば、昔話は民間の文芸の〈語り〉であるが、伝説は民間に根差した習俗や行事、慣行に密接に結びつく信仰の〈説明〉であって、体験を直感的かつ印象的に説明しようとし、弘法水の伝説を見ても判る如く、その水によって生活している人びとにとっては現実社会において信仰として現出してきます。
病気祈祷と関係した伝説などでは、特に、生々しい体験として我われが聞く場合に屡々遭遇します。
昔話に現れる超自然的なことは単なる空想の世界に行われるのではなく常民の生活に強い根を持っていて、事件そのものは実際的経験の範囲内に置かれていますが、しかし如何に空想の世界の出来事にせよこれを伝承しむるのは信仰の力であって、それはこうした出来事がかつて一度は起こったことがあり、将来もまた起こり得るかもしれないという奇蹟に対する信仰と言えるでしょう。
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伝説から昔話に派生したのか?
こうして両者の差異を検討していくと、昔話と伝説が密接な関係にあることは一般的に理解されるところでありますが、これら相隣接した分野の相互関係解釈の仕方は未だに定説をみないところであります。
一点注意事項として、我が国においては第二次世界大戦以降、昔話と伝説とをまとめて「民話(folk-narrative)」と呼ぶことが多く、屡々民間において昔話と同義語として用いられています。
古くヤコブ・グリム(Jacob Grimm)は神話を伝説と昔話の原型であると解し、昔話は単に同一材料の子供に適した表現にすぎないと考えました。
しかし昔話研究の趨勢としては、この物語形式が民族学誌的な事実として研究されて後はじめて、伝説と昔話とが、その根元は神話と同時であるという解釈の道が拓かれていきます。
主にドイツの方法論に沿った神話・伝説研究の体系化の先駆者である高木敏夫は、すべての民間伝説はその伝承地の民間において事実として信じられているものであり、信じられているからこそ〈伝説〉なのであって、それが信じられなくなると童話(昔話)もしくは童話と同じカテゴリーに属する民間説話となるという直線的な継承を説きました。一方で栁田は神話から伝説・昔話双方へその内容に応じて分かれて継承されたとする点で異なっていて、その後の我が国の昔話研究は栁田理論を引き継いでいます。
一方、昔話は民間信仰と必然的関係が無いと考えることも、十分想定され得ることでありますが‥‥‥
勿論この場合は民間信仰そのものの概念、昔話の概念決定によって決せられるべき問題でありますし、そして先述の如く、昔話は内容そのものは空想的であるにせよ、その表現内容は奇蹟を取り扱うもの。
科学的研究において必然的に民間信仰と民間文学とを分かち得ないことは、シードゥ(Carl Sydow)曰く、「すべての民間の文芸と民間の伝説とは、多かれ少なかれ、迷信的な諸概念に侵されている。だから昔話や伝説に、その内容と性格との大部分を貸し与えている迷信的な諸観念を知らないでは、昔話や伝説を研究して成功を収めることはできない。同じく民間の信仰と習慣では、昔話と伝説を参考にしなければ充分に研究され得ない。何故なら、この文学は非常に古くからの遺産で、今なお生命を保っている習慣よりも古く、より本源的な形式における迷信的な諸観念と習慣とを、我々に伝え得るものだからである。‥‥‥」とあります。
(関敬吾『関敬吾著作集〈1〉昔話の社会性』1980年.)
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一般的な文化伝承を鑑みるに、昔に遡って原型になるほど素朴なものが多いと謂われますから、歴史に関して、理路整然としているのはむしろ後世の文字社会になってから整理されたものが多いと思われます。
まァいずれにせよ、繰り返しになりますが、これは専門家の間でも未だに定説をみない概念定義でありますから‥‥‥
引き続き、最新の動向に注目していきたいですね!
ふたつ目、昔話の類型について。
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「昔話にはモチーフを共有する一定の類型がある」‥‥というのは、昔話に親しんできた我われにとってはなんとなく理解できるものかと思います。
幾つかのモチーフをもって構成されるのが実際に語られる昔話であって、そして先に述べたように、その個々のモチーフが神話・伝説と密接な関係にあるとされ、具体的な研究の対象となっていきました。
伝統的には、19世紀欧州の所謂「フィンランド学派」による昔話の類型分析が強い影響力を及ぼしました。
これは、フィンランドのクーロン(Julius Krohn)が民族叙事詩『カレワラ』の歌謡群の研究に採用した歴史・地理学的手法を、その弟子アールネ(Antti Aarne)が中心となって昔話の研究に適用して確立した方法論。
可能な限り多くの類話を集めて、その地域的・年代的相違を比較研究しながら、原型や発生地、成立時期、伝播経路などを探って昔話の基本形式を求めることを目的とします。
この欧州の昔話タイプ・インデックスを代表するアールネ、そしてトンプソン(Stith Thompson)らによる"The Types of the Folktale"(通称はAT)ではⅠ.動物物語、Ⅱ.通常昔話、Ⅲ.冗談と逸話、Ⅳ.形式譚の類型に大別されます。
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そうした先行研究をもとに、我が国ではどのような類型分析が試みられていったのか‥‥‥
ここでは、日本人の昔話タイプとしてまとめられた類型例を三つ紹介いたします。
1.柳田国男監修『日本昔話名彙』1948年.
もはやお馴染み、我が国民俗学の泰斗、柳田国男。
実のところ栁田は青年期、欧州ロマン主義へ傾倒したことを通じて昔話・伝説への関心を高めていき、なかでもハイネ(Heinrich Heine)による"Les Dieux en Exil"(『流刑の神々』、1853年)に大きな薫陶を受けました。
本書は、キリスト教の神に迫害された古代ゲルマン世界の神々にドイツ民族のアイデンティティを見出そうとする趣旨でありますが、栁田はそこに、近代化・西洋化の波に吞まれる日本社会を投影したというわけです。
そんな栁田は、日本民俗学学界の第一人者としての地位を確固たるものとした戦後、日本昔話のすべてを通時的観念から見渡し、誕生と伝承に焦点を当て、Ⅰ.神話を引き継いだ完形昔話、Ⅱ.神話のモチーフを一部もつ派生昔話、Ⅲ.その他に大別し、約340種類の昔話類型を掲げました。
2.関敬吾『日本昔話集成』1950-1958年.
我が国昔話研究におけるもう一人の巨人、関敬吾。
彼は欧州民俗学を積極的に摂取し、特に先のアールネに代表されるフィンランド学派の強い影響のもとで昔話の分類・類型化をすすめ、日本の昔話を国際比較研究の舞台に押し上げアジアやヨーロッパとの比較の中で研究しました。
具体的には、関は先に挙げたAT分類順序をそのまま踏襲し、Ⅰ.動物昔話、Ⅱ.本格昔話、Ⅲ.笑い話、Ⅳ.形式譚の順に分類。
新たにMTの略称を掲げてタイプ番号を与え、約650種類の昔話類型を説きました。
なお、1979年から翌80年にかけて増補された『日本昔話大成』において新たに78のタイプが追加されています。
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3.稲田浩二編『日本昔話通巻 第28巻』、1988年.
比較的新しい類型分析として、地方別に編集された同シリーズ資料編のうち、、特に第二次世界大戦以降に採集の進んだ南西諸島の資料を積極的に加えてタイプ認定を行った「昔話タイプ・インデックス」を挙げられます。
Ⅰ.むかし語り、Ⅱ.動物昔話、Ⅲ.笑い話、Ⅳ.形式話によって計1,211種類の昔話類型をまとめました。
そんな類型を抜粋すると以下のようになります。
Ⅰ. むかし語り
人の世の起こり:女神の降下、土の人がた、乙姫と山の神、兄弟夫婦
超自然と人:
〈人の世〉神の妻、見るなの美女、火種盗み、雨盗み、穀物盗み、寿命定め、年くばり、子作りの決まり など
〈来訪神〉大みそかの客、三つのかなえごと、大みそかの火、あと隠しの雪、弘法様、宝手拭い、もの食う魚
〈授福〉若返りの泉、寿命の蝋燭、鷲のさらい子、八百比丘尼、山姥の鈴、山姥の仲人、笠地蔵、瘤取り爺、三つの質問、風の神と子供、金の斧、大みそかの金馬、貧乏神 など
〈処罰〉言うなの地蔵、肉付き面、長者の日招き、龍神の予告、山の神と女房、木の処罰、無限の鐘 など異郷訪問:
〈竜宮〉浦島太郎、竜宮童子、竜宮犬、竜宮壺、竜宮の援女、釣り針と二ライの神、玉取り姫
〈地下の国〉地蔵浄土、鼠浄土、隠れ里、後生訪問
〈山野の国〉舌切り雀、鷲の浄土、山中の若打ち、ぶよの一時、
〈天上の国〉飛び船天恵:竹切り爺、天福・地福、夢見童子、味噌買い橋、藁しべ長者、鬼の面、猿地蔵、とり付くひっ付く など
呪宝:狐のまつ毛、塩ひき臼、聞き耳頭巾、尻鳴りべら、鼻高扇、宝ひょうたん、宝下駄、母の形見 など
誕生:
〈異常誕生〉桃太郎、瓜姫、竹の子童子、こんぴ太郎、手斧息子、一寸法師、指太郎、たにし息子、蛇息子 など
〈運命的誕生〉炭焼き長者、足なえ長者、男女の福分け、運定め、夫婦の因縁、水の運、子どもの寿命、幼な妻 など兄弟話:
〈兄弟の競争〉跡継ぎは兄、兄は兄、弟出世、三郎と欠け紙
〈兄弟の対立〉兄弟の漆搔き、兄弟と狼、弟切り草、粗暴な弟、姉と妹
〈兄弟の協力〉兄弟の邂逅、兄弟の仲直り、兄弟の村救い、なら梨取り、姉と弟、ウナイ神と船旅継子話:米福・粟福、皿々山、姥皮、鉢かつぎ、手なし娘、灰坊、継子の肝取り、おぎん・こぎん、俊徳丸 など
婚姻:
〈異類婚〉蛇婿入り、蟹報恩、鬼婿入り、たら婿入り、くも婿入り、猿婿入り、猪婿入り、犬婿入り
〈異類女房〉絵姿女房、魚女房、貝女房、天人女房、星女房、蛇女房、狐女房、鶴女房、木霊女房、しがま女房 など
〈婚姻成就〉歌婿入り、隣の寝太郎、たこ取り長者、死んだ娘蘇生、契りの玉、難題婿、難題嫁 など霊魂の働き:
〈生霊〉夢と蜂、親の声
〈死霊〉子育て幽霊、母の猫、幽霊女房、枯骨報恩、産女の力授け、灰の発句、歌い骸骨、焼き紙由来 など
〈生まれ変わり〉こんな晩、陰徳の益、後生の牛、盗人と馬、娘と船、継子と鳥、継子と笛 など厄難克服:
〈賢さと愚かさ〉猿神退治、山男の手袋、猫とかぼちゃ、猫と茶釜の蓋、さとり、旅人馬、鍛冶屋の姿、絵猫と鼠、山寺の怪、化け物問答、蟹問答、大工と鬼六、賢淵、水の神の文使い、蛇の湯治、茸の化け物、雪女、餅と狸、妻女奪還、甲賀三郎、天の庭、百合若大臣、山姥と櫛、首のない影、耳なし法師
〈逃走〉鬼の飯炊き、三枚のお札、天道さんの金、鬼の子片づら、馬子と山姥、脂しぼり、食わず女房、蛇女 など
〈悲運〉たこの足の八本目、猫の秘密、ふかと影動物の援助:花咲か爺、腰折れ雀、鼠の相撲、狸の茶釜、狐のお産、河童、犬と猫と玉、猫檀家、狼の守護 など
社会と家族:人間忘恩、仏の糸、赤飯と子供、人柱、金持ちの施し、姨捨て山、正直の徳、孫の生き埋め など
知恵の力:追いはぎと唱えごと、金の瓜種、亀の頭、話の功徳、箱の中の鼠、知恵殿、馬の皮占い など
Ⅱ. 動物昔話
動物前世:ほととぎすと兄弟、山鳩と継子、親捜し鳥、雀孝行、雨蛙不孝、水乞い鳥、蚕と娘、みょうがと小僧 など
動物由来:ふくろう紺屋、こうもりの二心、ひばりと生き水、もず借金、犬の足、もぐらと太陽、大根と人参と牛藁 など
動物葛藤:猿蟹合戦、雀の仇討ち、餅争い、寄り合い田、かちかち山、尻尾の釣り、鬼と狐、鳥獣合戦、猫と鼠
動物競争:干支の起こり、たにしと狐の競争、蛙と狐の旅、みそさざいは鳥の王、化けくらべ、長寿くらべ など
動物社会:文読み分配、猿の仲裁、町の鼠と山の鼠、鼠の婿選び、豆と炭と藁の旅、豆と炭と藁、大鳥とえび、むかでの使い、猿の生き肝、古屋の漏、京の蛙大阪の蛙、大木の秘密 など
Ⅲ. 笑い話
賢者と愚者:和尚と小僧、餅は本尊、焼餅和尚、鮎かみそり、馬の落し物、小僧改名、和尚お代わり、かみがない、飴は妻、継子と団子、金ひり馬、飯炊け釜、渡し賃、「し」の字嫌い、何がこわい、たのきゅう など
おどけ・狡猾:匂いの代金、ただで芝居、にせの占い、名裁判、祝い直し、三人の癖、庚申の夜の祝言、にせ本尊 など
くらべ話:ほらくらべ、二反のさらし、難題問答、難題話、歌くらべ、話堪能、屁の問答 など
愚か者:長い名の子、星を落とす、無言くらべ、法事の使い、あわて者、金をもうけたら、本音は生きたい、嫁が見たら蛙に、豆こ話、念仏と泥棒、ほれ茶、半殺し本殺し、ちゃくりかき、嘉兵衛鍬、ところとお村、平林、みょうが宿、二度のおとし、馬の尻のぞき、髪剃り狐、狐の婚礼、法印と狐 など
愚か婚:馬の尻にお札、頭の替え、段々の教訓、熟柿でけが、蟹のふんどし、物の名忘れ、のがれんや など
愚か嫁:縁がない、「お」の字の禁、学のある嫁、嫁と団子、歌まね失敗、もの言えぬ嫁、ぬかの目印 など
愚か村:旅学問、手水をまわせ、尼の仲裁、芋ころがし、うどんにたどん、塗り物のえび、かずのこと竹藪 など
誇張:屁ひり嫁、どうもこうも、頭が地、鴨取り権兵衛、運のよいにわか武士、隠れ蓑、閻魔の失敗 など
言葉遊び:芝居見物、きゅうくつ、鶴は千年亀は万年、月日のたつのは早い、草刈った、逆さ話 など
Ⅳ. 形式話
果てなし話、長い話、短い話、はなし話、歯なし、半紙が四枚、鳥食い婆
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例の如く、南西諸島やアイヌにおいては本州のそれとは異なる固有の事情があります。
たとえば、南西諸島は昔話と神話との交叉が著しい地域と特徴付けられていますし、あるいはアイヌの口承文芸については、①カムイ・ユーカラ、オイナ〈神謡〉、②ユーカラ〈英雄叙事詩〉、③ウェケペレ、ツイタク〈昔話〉に大別されるなど語るに事足りませんが‥‥‥
ここでは深堀しないこととします。
個別地域に対する追究の必要が止めどないですね!
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それでは、何故こうした類型研究を行っていく必要があるのか?
端的に結論を述べれば、各地に採集された昔話を比較して、その原型に近づくことが昔話研究の意義。
それ即ち「日本人の由来」、或いは生きるということに対する「心意」を探ることであります。
上記の通り、昔話は説話の成長の過程で時代時代の語り手・聞き手の関係の中で単純化していきますが、栁田は聞き手によって姿を変えて行くそのプロセスを明らかにすることが昔話研究の目的であるとしました。
彼は信仰を伴った説話から〈信仰〉が喪失した、説話の零落した姿が昔話であると捉えていましたが、栁田は、昔話に内在すると仮定される日本人固有の信仰や世界観、さらには社会制度や組織までを復元しようと試みました。
本来〈信仰〉とは、「自然‐家」の関係性を中心とする生活世界と自分自身との関わり方そのもの。
よって信仰の基礎は生活の自然の要求にあって、神は、人間界において意識が無意識とかいった線上にうっすらと登場して、人は生活との繋がりを見出し、それを語り継いでいくものです。
そんな、意識に昇らぬ生存の豊穣な印こそ、信仰生活に密着した栁田の昔話への研究姿勢でありました。
(柳田国男『遠野物語』2010年、『日本の伝説』1977年、『山の人生』2013年.)
戦後日本の知の巨人・吉本隆明は栁田の知性論を批判し、その根本問題は何故に人が共様のことを言い始めるかに至ったかであり、共同幻想に潜む独自の知性とその問題について提起しました。
「無方法の方法」『吉本隆明全集 7』1962-64年.
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養蚕の生業は日本人の民俗生活に不可分。
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実在性の有無よりも語り継がれる「聖徳太子」像が重要。
武田正『昔話の伝承世界‐その歴史的展開と伝播』より続けて引用すると、昔話の意味についての見解は以下の6通りに大別されるといいます。
自然現象乃至その反映となる自然神話学的解釈。
タイラー、ラングなど、宗教的観念から説明しようとする人類学的立場。
日本の固有信仰との関連において解釈しようとする栁田の手法。
昔話の中に古儀礼の残滓を見出そうとするサンティーブの手法。
性的事件と結びつけて解釈したいフロイト一派の精神分析学的立場。
無意識の体験と比較して説明しようとするユング一派の心理学的解釈。
或いは、昔話と子供の関係をこのように指摘します。
昔話は親が小さいもののために、これだけは是非とも大きくなるまでに覚え込ませて置かねばならないものとして語るものである。
子供は早く成人になりたいという願いを強烈に持っていたが、昔話はそれに合った話である。
子供は神に最も近い存在であり、大昔以来の民族的情感を黄泉返らせることができるものとみられていた。それは失われた神の世界を子供の仕草に見ることにも通じている。
モチーフに少し踏み込んでみると、本格昔話のすべてが「死と再生」をテーマとする一方、動物昔話は動物による人間社会の模写であって、笑話は失敗譚を笑う中で村落共同体の成員となっていくその日暮らしの聞き手が主人公となっており、謂わば裏返しの社会を描写していると考えられます。
武田曰く、昔話は村落共同体を活性化するという機能を、確かにある程度は期待されていました。
(とはいえ先述の通り、現実の語りの場においては先ずは興味をもってもらうことに腐心し、内容は時代時代に換えられていきますが。)
つまるところ、昔話はそれをいつまでも要求し心酔してきた共同体・子供の中に伝承されて今日に及んだものではあるが、昔話が大人から――或いは子供からも――離れてしまったのは、現在では信ずるに足らないものとなってしまったからであると推察できます。
旅する民俗学者・宮本常一は、「民俗≠生活誌」という点に注意喚起をしています。そもそも人は進んで語りたいことをもつものであって、個人にそれぞれの歴史と生活がある。現実の生活様態に触れるならば、彼らの有する具体的な技術についてもきめ細やかに構造分析する必要性があると謂います。
したがって両者の概念を改めて整理するとすれば、
民俗:ムラ共同体を維持するために形成、伝承により定着する。
生活誌:伝承されてきた民俗、を具体的な生活の中でどのような心情でもって消化しようとするのかを見せてくれる。
敷衍すれば、民俗学でいう「民俗」≠ムラの制度、とも解釈できます。
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異人と異界の構造
さて、昔話に屡々登場するモチーフである〈異人〉〈異界〉について、少し考察を試みましょう。
このワードから直ぐに着想されるのは、折口信夫の「まれびと」論。水田稲作により完成した日本の農耕定住民社会においては、来訪する神は人をして神を称し、時期を定めて共同体に来訪し、農耕のサイクルの再生と共に人びとの日常生活のケガレを回復する必要があった。古代には人間の賓客の来ることを知らず唯だ神としてのまれびとの来ることのみを知っており、近世に至るまで賓客への待遇は神に対するそれと同じであったといいます。
「真間・蘆屋の昔かたり」『折口信夫全集 6』1995年.
折口の思想を前提にすると、異国から来る者たちは、ムラの人たちにとっては神の代理人であるとともに(異人歓待譚)、共同体の秩序を脅かし得る外敵である(異人殺し譚)という、ムラ共同体の両義的性格を垣間見ることができます。
同様に、異界への訪問は「〈死〉と〈再生〉の異化効果」という対置構造を読み取ることができ、主人公はまず、現実の貧困から逃れ無欲な者だけが住むユートピアを目指していくのです。
浦島太郎では竜宮世界のユートピアを目指し、炭焼長者では山中他界のユートピアを目指す。
如何ともし難い生活の苦しさが確かにあって、人為の束縛よりも更に強い自然の制約から脱しようと欲する心から描き出した、異郷。
それを昔話として口伝してきたのは、現実社会の矛盾を克服し絶えず生活を活性化させるためという、昔話の役割の一端を感じ取ることができるのではないでしょうか。
(勿論、被拘束感を有し実際には意識に昇り難い信仰生活において神々への信仰として存していると想定できても、それが〈拘束〉としてはっきり意識することはできないのではないか、という存在的な問いは残ります。)
柳田は、笑いの文学の語り手は追々に疎外されて統一圏内から逸脱したものであるとし、その担い手は身体的なハンディキャップを抱えたり、村からの疎外により笑えない境遇に追い込まれたりして苦しい旅の漂泊の旅を宿業としている人びとであると説きます。村落共同体・国家から隔離され漂泊しなければならなかった語り手の位相こそ、この世における生身の霊・悪霊の発現なのであると、口承文学の構造に重要な示唆を与えています。ここで芸能論を詳しく引用して被差別民の構造まで足を突っ込むのは止めておきますが、兎角「笑い=知的行為」という構造のもと、微かな知性として消えていった笑いの生存ドラマは、神秘的で未知であるという点で信仰現象であったという視座が重要であります。
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或いは、国際比較民話研究は常に政治に陥る危険性がある点にも注意したいです。
たとえば、インドネシア・セラム島のウェマーレ族に伝わる所謂「ハイヌウェレ型」神話。
殺された女神の死体から穀物や根菜類がはじめて生じたという起源神話で、同様の形の神話類型が東南アジア、オセアニア、南北アメリカにも広く分布していると注目されました。
さて、我が国の穀物由来を物語る神話はというと、『古事記』においてはスサノオがオオゲツヒメを殺して五穀と養蚕が生じたと謂います。
(『日本書紀』においては天孫降臨の前段でアマテラスが授けるという流れになっており、大筋が異なりますが。)
又食物乞大氣津比賣神、爾大氣都比賣、自鼻口及尻、種種味物取出而、種種作具而進時、速須佐之男命、立伺其態、爲穢汚而奉進、乃殺其大宜津比賣神。故、所殺神於身生物者、於頭生蠶、於二目生稻種、於二耳生粟、於鼻生小豆、於陰生麥、於尻生大豆。故是神產巢日御祖命、令取茲、成種。
すなわち日本においては、農耕神の来訪としてマロウド神信仰が雑穀耕作地帯で伝承され、昔話においては「嫁殺し田伝説」「花咲爺」「狗耕田」などが該当しハイヌウェレ型の残滓であると考えられます。
(伊藤清司『昔話伝説の系譜:東アジアの比較説話学』 1991年.)
柳田の稲作単一文化論に通じることですが、こういった論理はナショナリズムへと容易に転化しうるわけで。
「同じ神話を共有しているから我われは同一の民族起源を有している!」「逆にこの神話体系は我われ固有だ!だから我われは優秀な民族なのだ!」などと、愛国者気取りの趣味人に好き勝手に利用され、こじつけな妄想に過ぎない環太平洋的な広大な文化クラスタと民族移動の理論さえ、恰も真実の歴史として語ってしまうような、そんな危険を孕んでいます。
まァ、それじゃあ何がいったい「真実」なのか?
それぞれの類型に該当する昔話は何か?比較分析は可能か?
‥‥‥まで踏み込んでしまうと、どう考えても紙面と、私の勉強量が足りませんので。
機会があれば、個々事例を追い考察してみたいと思います!
みっつ目、特殊な具体例としての〈桃太郎〉について。
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とはいえ、全く個別事例に触れないとなると汎用性の欠片もないので。
昔話・伝説をどのような視点でもって考察していくべきか、その特殊性ゆえに代表例として取り上げるには相応しくないと言い訳したうえで、やはり最も有名な昔話である「桃太郎」を取り上げます。
昔話「桃太郎」を巡る議論から、如何に民俗学的な発見が為されていくのか、そんな過程を垣間見ていきましょう!
昔話の成長段階に応じた三つの変化を挙げると‥‥‥
1.上代において芸術化しそのやや成熟した形で今日に及んでいるもの
ex.) 歌う骸骨(欧州でいう「死人感謝」)、紅皿欠皿
2.説話の信仰上の基礎が崩壊せずに残ったもの
ex.) 蛇婿、異類求婚
3.近世に入って急激に成長したため元の樹の所在が不明
ex.) 桃太郎、瓜子織姫
すなわち桃太郎は例外的な類型なので、実は具体例としては微妙。
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前章で触れましたが、栁田は、昔話に内在すると仮定される日本人固有の信仰や世界観、さらには社会制度や組織までを復元しようと試みました。
殊に我われ日本人にとって最も馴染み深い昔話のひとつ「桃太郎」では、柳田は所謂「異常誕生」に注目することで、これは日本の固有信仰としての「小さ子信仰」――体躯の小さな神が異界から人間界にやって来るという観念を示すと説きました。
すなわち、民間に生きる翁と媼がある時、偶然からある尋常ではない力を持った子供を持つに至るという話を日本全国の事例から再構成して、これを「神の子供」類型と想定。
その「神の子供」はどのようにして生まれたのか、という視点から桃太郎を読み解いていきました。
(柳田国男『桃太郎の誕生』角川文庫、1973年.)
前期柳田が〈天津族-国津族〉の対立構造を軸として稲作文化を共有しない山民存在を想定していた一方、後期栁田は日本を稲作文化に基づく単一文化民族であると考えた傾向があるため、こうした発想のもと、当該昔話・伝説・神話は水稲耕作文化を民俗の基礎に据えて発展してきたのだという、それ以降の日本民俗学にとって大前提となる仮定を内包しています。
ナショナリズムに利用された柳田の理論は戦後もしばらく学界を支配しますが、1970年代以降、坪井洋文による餅なし正月への問題提起と畑作文化による稲作文化の相対化、中尾佐助や佐々木高明らによる所謂「照葉樹林文化」クラスタ仮定、或いは農学的、考古学的成果の集積によって徐々に解読されていきます。
佐々木高明『日本文化の源流を探る』2013年.
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前回ちょっとだけ登場しました石田英一郎は柳田の仮説を受け、日本各地に分布している桃太郎や一寸法師に代表される子供の神様の伝説が、実は水界に関係していると考えました。その性格として指摘したのは、
湖底からある時、不意に現れる。
その時、決して一人では現れず、多くはその母親とおぼしき人が寄り添う形で現れる。
この母親に想定される人物を穀物神の一種とし、父親が誰なのか分からない点が重要であると説きます。
日本の神社の縁起にはこうした父親のいない神が多く登場していて、謂わばある種の処女懐胎的な性格を有している‥‥‥
その外延を広げていくと日本という枠組みを外れて広いスケールで展開していると考え、昔話・伝説の系統や淵源を調べていけば日本だけですまされないということこそがその特色であるとし研究を進めました。
具体的には、同様の伝承は大陸や太平洋島嶼部にも分布していて、水界と女性の関係性を強調する伝説がとりわけメラネシアからポリネシア、インドネシアにまで広く行き渡っていて、その伝承は概ね、水界から現れた人物が大きな福徳をもたらすことに注目します。
(石田英一郎『桃太郎の母』2007年.)
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そんな桃太郎ですが、現代の我われの多くは、おそらく、絵本という紙媒体を通して物語の写実イメージを形成したのではないのでしょうか。
すなわち、長らく口承文学であった昔話は明治時代以降、主に子供向けの絵本であるという特性を帯びるようになり、聞くことで快いと感ずる物語性が希薄化していきます。
絵は幼い読み手にわかり易さを齎してくれますが、同時に、絵という制約から口承でみられる部分の省略や、口承では重要でなかった別箇所への注目という現象が起きてしまいます。
我われが知る「桃太郎」のイメージとは、その正体は、その由来は、いったい何なのでしょう‥‥‥?
文字化された途端、或いは学術的なモチーフ分析を通して、神話なり伝説の片鱗をそこに見ようという研究の材料にすぎないものと理解されてきてしまったことも、昔話のまた一つの不幸であったのかも知れません。
(武田正『昔話の伝承世界:その歴史的展開と伝播』1996年.)
おわりに
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以上、知っているようで全然知らないことでお馴染みの昔話について、改めて考察を試みた次第でありました。
最初に白状しました通り、恥ずかしいことに、私自身のしどろもどろな昔話解釈を冗長に書き殴ってしまい、おのれの浅学さに忸怩たる冷や汗を催すばかりであります。
こうして文字化したことによって理解が促されたのもまた事実だとは感じていますが、然し矢張、もう少し基本知識を収集していきたいところですね!
或いは、お馴染みの桃太郎ひとつ深堀してみても、さまざまな議論ができるわけでありますが‥‥‥
いやー難しいっす(素)
はい、すみません、今後は個別の類型分析を通して理解を深めます‥‥‥。
気が向いたら個別解説回もブログで書いていきますゥーーー
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最後に、再び武田正『昔話の伝承世界‐その歴史的展開と伝播』から引用しまして、今回の昔話がたりを締めたいと思います。
武田は昔話と現代マスメディア・口コミを比較し、後者は語り手と聞き手が同じ立場にあって、更にそれが一因となって人を酔わせるほどの魅力をもったものとなっていないと指摘します。
「あまりにも豊かな物質的環境と、シミュレーション化された「幸福感」に酔い、幸福感と幸福そのものを同一視しており、シミュレーションの幸福感が現実と衝突することで崩壊し去ったときの「不幸」を考えれば、豊かで幸福であることが幻想にほかならなかったと知った後でなお、その幻想を維持、自足したいという願望がモラトリアム現象を引き起こしているのであろうか‥‥‥」
ウーム、正鵠を射ているなァ‥‥‥。
耳が痛い!
参考文献
安室知『餅と日本人:「餅正月」と「餅なし正月」の民俗文化論』吉川弘文館、2020年.
石田英一郎『桃太郎の母』講談社学術文庫、2007年.
伊藤清司『昔話伝説の系譜:東アジアの比較説話学』 第一書房 、1991年.
伊波普猷『猿田彦神の意義を発見するまで』刀江書院、1926年.
稲田浩二編『日本昔話通巻 第28巻』、角川書店、1988年.
稲田浩二、稲田和子編『日本昔話ハンドブック 新版』三省堂、2010年.
折口信夫「妣が国へ・常世へ」『折口信夫全集 2』中央公論社、1995年.
折口信夫「真間・蘆屋の昔かたり」『折口信夫全集 6』中央公論社、1995年.
川田稔『栁田国男の思想史的研究』未来社、1985年.
佐々木高明『日本文化の源流を探る』海青社、2013年.
関敬吾『関敬吾著作集〈1〉昔話の社会性』同朋舎出版、1980年.
関敬吾『日本昔話集成』角川書店、1950-1958年.
高木敏雄『童話の研究』婦人文庫刊行会家庭文庫、1916年.
高橋広清編『栁田国男と折口信夫』日本文学研究資料新集29、有精堂、1989年.
武田正『昔話の伝承世界:その歴史的展開と伝播』1996年.
ハインリヒ・ハイネ著、小沢俊夫訳『流刑の神々・精霊物語』岩波書店、1980年.
宮本常一「雑文稼業」『民俗学の旅』講談社学術文庫、1993年.
柳田国男『海上の道』岩波書店、1978年.
柳田国男「神を助けた話」『柳田国男先生著作集』第10冊、実業之日本社、1950年.
柳田国男『遠野物語』大和書房、2010年.
柳田国男監修『日本昔話名彙』日本放送出版協会、1948年.
柳田国男『日本の伝説』新潮文庫、1977年.
柳田国男『不幸なる芸術・笑の本願』岩波文庫、1979年.
柳田国男『桃太郎の誕生』角川文庫、1973年.
栁田国男『山の人生』角川ソフィア文庫、2013年.
吉本隆明『改訂新版 共同幻想論』角川ソフィア文庫、2020年.
吉本隆明「無方法の方法」『吉本隆明全集 7』晶文社、1962-64年.
維基文庫「古事記/上卷」