映画『手』ネタバレ感想/おじさんが好き…でも痛烈
日活ロマン・ポルノ60周年を記念して、「ROMAN PORNO NOW(ロマンポルノ・ナウ)」として、新たな日活ロマン・ポルノが制作された。その1つが『手』である。
監督は、『ちょっと思い出しただけ』の松井大吾監督。さわ子役は、『彼女はひとり』『本気のしるし 劇場版』の福永朱梨。森役は、『猿楽町で会いましょう』の金子大地。日活ロマンポルノというより、恋愛映画という印象だが、私のような20~30代の女性層を意識した映画だと感じた。
映画を鑑賞後、山崎ナオコーラの原作小説を読んだ。“おじさんが好き”というさわ子のおじさんに対する痛烈な姿勢が好感であり、それは映画でも非常によく表れていたように思う。思わずナイス、と言いたくなるようなさわ子の言葉の数々。
さわ子のおじさんに対する好きは、性愛からくるものとは少し違う印象を受けた。興味の対象としての好きの延長線のような感じがした。それなのにさわ子は、実の父に対する愛憎入り混じった思いがあり、どこか矛盾している。
一方で、おじさんはさわ子の若さ、可愛らしさしか見ていない。若い子に色々教えてやろう、応援している、それら全ての言葉の背景には、無自覚な優越感があるような、上から目線を強く感じる。さわ子は幼さと危なっかしさを備え、保護欲をくすぐると共に、言う事を素直に聞いてくれる、気持ちを受け止めてくれる存在としてぴったりなのだろう。そんなさわ子を演じる福永朱梨の存在感も絶妙だ。
相手役の金子大地もいい。それなりに女慣れしていて、ずるい人だけれど、どこかダサさも変な真面目さもある。さわ子に彼女の存在を知られ、もう会わないと自分で言ったくせに泣き出してしまう。別れに対し、さわ子は冷静である。それなのに森は、勝手にさわ子に申し訳なく思い、泣いているのである。
森はさわ子を関係を持った当初も、こんな感じになってしまってごめんと謝る。それに対し、さわ子は私もしたいと思ってした事なのにどうして謝るのかと言う。勝手に責任を感じ、それが一方的で相手の意志を蔑ろにしていることに無自覚なのである。
確かに、一定の女性には相手に責任をなすりつけることもあるかもしれない。男女共に、恋愛において男性は~すべき、女性は~すべきという固定概念にとらわれていることはよくある。そういった固定概念に対する疑問は原作小説からあったものではあるが、映画にも受け継がれていて好感であった。
恐らくさわ子にとって森は、愛してみたい相手であり、愛している相手ではなかったのではないだろうか。女の子扱いするのに、ちゃんとした大人になれ、いつまでもふらふらしていたらダメだというおじさんたち。自分は娘くらいの若い女の子と遊んでいるというのに。
おじさんや森との交流を通してさわ子が一歩前に踏み出す。映画ではその一歩を父との関係を通して描いており、そこは原作と違う点ではあったが、良いラストだと思った。