仏映画『あのこと』を見て/フェミニズムにまつわるあれこれ
映画『あのこと』をみて、改めて色々フェミニズムやそれにまつわる最近色々なムーブについて、映画を中心に考える。(2022年の覚書)
分かりやすさの弊害
近年印象的であったフェミニズム映画として、『プロミシング・ヤング・ウーマン』(2020)がある。確かに、興味深い視点ではあるが、その結末はナンセンスである。
親友を救えなかった後悔から、派手な格好をして酔ったふりをし、そんな彼女を家に連れ帰ってあわよくば性行為しようとする男に制裁を加えている。
これは単なる私刑で、復讐の方向性としてはひっちゃかめっちゃかな行為ではある。しかし、そこまでして、性犯罪を犯していることに無自覚な男性のグロテスクさ描き出そうとしたということはまあ分からなくもない。そして、これは深読みしすぎかもしれないが、そのようなインパクトがなければ企画が通らないということもあるのではないか……。
『プロミシング・ヤング・ウーマン』が突きつけたグロテスクさに関しては、そこまでしないと本当に気づかない、そしてそこまでしても気づかないミソジニーが蔓延っているという現状も感じさせる。
とはいえ、復讐相手と再会したことにより、思い出したかのように復讐していく様は色々と粗が多く、鉄槌を下す側のぶれぶれ感が、批判を言いやすい隙を作ってしまった。
要するに筋が通ってないのである。この“筋を通せ”という感覚も非常に男社会的で好きではない(筋を通すために冷蔵庫の女が生まれているという側面もなくはない気がするので)が、必要な観点でもある。
出発点は良くても、行き着く先がお粗末…という映画はよくあるものだが、これがフェミニズム映画だと批判も大きくなる側面はあるように思う。そしてハリウッド映画によくあるが、分かりやすさがかえって、自分の首をしめる結果にもなる。
その点『セイント・フランシス』(2022)はインディーズらしいミニマムさで私の物語から私たちの物語へ、丁寧に描かれていた。
性の壁
『わたしは最悪。』(2022)は、欧州映画らしい分かりやすい構図で描こうとしない曖昧さに好感がもてた。コミカルな奔放さでもない、妖艶なファムファタールでもない、大人になりきれない、何者にもなりきれていない主人公。
ここでがむしゃらに頑張っちゃうのも、破滅的になるのも疲れるが、揺らぎながら選択を突きつけられる30代女性の息苦しさを描き出すのが良かった。しかし、どこか男性的だなというものを感じてしまう。
しかし、男性監督だから〜女性監督だから〜と、性の壁を認識してしまうのは危険でもある。私は女性という認識で生きている、その上で男性だから理解できないでしょうと境界線を引いてしまうことは、相互理解の可能性を否定している。逆に、男性のことは分からないと拒絶していることにもつながる。
一方で、話し合いにならない、理解してくれない相手に理解してもらおうと頑張り続ける必要があるのかという問題もある。
これは性の壁以上に世代間において私自身が感じていることでもある。上の世代はいずれ消えゆく、そこに労力を割くよりこれからは私たちの世代で連帯しようというメッセージを感じたのが『あのこは貴族』(2021)だった。
高良健吾演じる幸一郎は、家柄に縛られ弁護士の道を進み、いずれは政界に進出していくことを求められていた。古い価値観から抜け出せず、抜け出そうともしていない。幸一郎と華子の間にあるものは男女の分断というより、世代の分断といえる。
普遍性と連帯
『あのこと』も、性の壁はどうしても感じてしまう映画かもしれない。妊娠を自分の肉体の問題であるという認識を男性が持つのはやはり難しく、肉体に付随する痛みや違和感も生物的に女性であることに付随する。
また、本作はそのような肉体に付随することからくる感じ方の違いを浮き彫りにしている。主人公・アンナは妊娠を“ある出来事”といった認識で対処すべき事象としてみている。それは若いアンナがこの出来事に向き合うために無意識的に感情を排除していた、ということもあるのだろう。
フランス映画を見ていると非常に個人主義の国という印象を受ける。自立した女性の姿に憧れを抱きたりもするが、一方で自分勝手と感じる側面もなくはない。先に述べた『わたしは最悪。』は同じ、ヨーロッパ圏ということもあり、雰囲気はやや近いかもしれない。
『あのこと』においても、アンナは強い。真正面から対峙する。友人に頼ったりせず、相談もしない。家族にも言わない。言わないというより言えなかったという側面もあるだろうが……。
『あのこと』の映画化において、オードレイ・ディヴァン監督は、アンナと観客が共鳴するかのようなリアリティで生々しく描き出す。肌の質感から何まで映画的な撮り方は一切しない。
私が妊娠しなかったのは運が良かっただけ、アンヌと私の違いはそれだけだと思う人と、厄介ごとには巻き込んでくれるなと思う人。どれも人間らしい反応でそれは現代社会にも繋がるものである。もし私がアンナだったら、アンナの友人だったら……自分のこととして捉えてみるとその恐怖がよりリアルなものになる。
『あのこと』を中絶という問題だけに目を向けるのではなくそこに内包された問題、そしてその普遍性に目を向けてみると、時代が変わっても産む性に付随する根っこの抑圧はそう変わっていないように感じる。