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映画『エコール』『ミネハハ』ネタバレ感想/閉ざされた世界 無垢な少女たち

フランク・ヴェーデキントの小説『ミネハハ』をもとに映画化されたのが、『エコール』(仏・2004)と、『ミネハハ 秘密の森の少女たち』(伊・2005)である。

同じ原作を元にしているものの、その印象は全く違う。原作を踏まえ、2つの作品を比較してみていきたい。


まずは原作について。隣人の手記を受け取ったというところから、手記の形で1人の女性の数奇な人生が語られていく。

その語り手は、物心ついた頃にはすでに、同じ年頃の子供達と共に暮らしていた。幼少期過ごしていた学校には男女ともにいたが、次の寄宿学校では、同じ年頃の少女ばかりで、教育者も女性であった。

そこでは、年長の少女が新しく来た子に様々なことを教えていく。少女たちは、教育者の指導のもとダンスや音楽を習い、年長の少女たちは夜な夜な劇場に向かう。歳月が経つと年長の少女はどこかへ去っていく。そしてまた新しい少女がやってくる。

何の目的でこのような生活をし、劇場で誰のためにダンスを披露しているのか……。少女たちは何も知らない。いなくなった年長の少女がどこにいったのかも。それどころか、学校の外の世界を全く知らないのだ。

語り手の女性も、時が来て劇場に行くようになる。そして、その学校を去ることになったと記されているが、その後どこに向かったのか、詳しくは語られていない。

しかし、手記には、大人になってパトロンと共に、かつて自分が出ていた劇場に観客として行ったことが記されている。恐らくパトロンの資金で成り立っていたその学校は、パトロンのための英才教育をしていたのだろう。劇場はいわば、育て上げた少女たちをお披露目する場という訳だ。何ともグロテスク。

そんな原作小説において印象的であったのは、醜いもの(特にメイドの老婆)に対する嫌悪感である。そして、その嫌悪感は自分自身の体の変化にも向けられている。

恐らく劇場でお披露目するタイミングがくるきっかけは“初経”であろう。舞台でお披露目し、パトロンに気に入られれば、パトロンの援助を受け次の学校へと向かう。もしくは愛人のようになった人もいるかもしれない。明記されているわけではないので、推測だが……。

しかし、語り手が感じている自身の体に対する嫌悪感は、パトロンと学校の関係性に対するグロテスクさとは全く別のものだ。物心ついた頃から、綺麗な子たちと育った語り手にとって身近な醜い、嫌悪すべきものがメイドの老婆であった。

そんな語り手は、初経だけでなく、綺麗な子を始め、他の少女に感じる情景や嫉妬、恋心に近いもの……それら全てを穢らわしいと認識しているのだ。無垢さ、純潔さが初経を迎えて大人の身体になると失われてしまうとでもいうかのように。

耽美的である一方で、グロテスクさを感じさせる原作小説。その雰囲気は2つの映画化作品にも継承されている。次に映画について見ていきたい。


まずは『エコール』である。

ギャスパー・ノエのパートナーであり、ノエの作品にも携わっているルシール・アザリロヴィックの初長編作。

大枠としては、原作に忠実な映画化といえる。新しく寄宿学校にやってきた少女を通して、年長の少女への思慕や、耽美的な世界観を描く。学校の謎を探ろうとしたり、外の世界へ行こうとする少女の死などサスペンスフルな展開も。

耽美的な世界観は少女性という禁忌の香りによって見てはいけない世界のような雰囲気ですらある。そんな世界から外の世界へと旅立った無垢な少女を捉えて映画は終わる。

新たな世界という希望を感じさせつつ、そこにディストピアの予感を仄めかすのは、同監督の『エヴォリューション』のラストにもつながるものかもしれない。


続いて『ミネハハ 秘密の森の少女たち』(以下、『ミネハハ』)について。

『ミネハハ』は、原作をベースにしつつも、設定年齢を小学生くらいから中高生へ変えている。それにより、少女たちが商品として扱われ、搾取するグロテスクさがより強調される。

それだけでなく、中高生にしたことで、少女たちの世界における愛憎劇がドロっとしたものになり、サスペンス色が強まっている。

主人公のHidallaは、Ireneと恋仲のような関係になるが、それは許されぬ関係だと分かっていた。かつて施設にいた生徒が恋仲になった罰で、この施設でメイドとしているという噂が広まっていたことにも関係している。

すれ違いの果てに絶望したIreneは自ら命をたってしまう。全てに怒り、絶望したHidallaを中年男性が凌辱し、燃え上がる火の中Hidallaが泣き叫ぶ声が響き渡る。トラウマになりそうなラストだ。

しかし、この衝撃のラストは原作で明記されていないが、その背後にあるグロテスクさとそう遠くないものであろう。また、原作の語り手のように、そういうものと受け入れている盲目さもある意味恐ろしいものである。

先にも述べたように、単なる耽美的な物語として受け取れないグロテスクさが原作にはあり、それは2つの映画作品にも通ずるものである。特に『ミネハハ』はその生々しさを強調して映像化されたものといえよう。

ちなみに、原作小説の中で“ミネハハ(Mine-Haha)”は、“笑う水”を意味するインディアンの言葉と説明されている。

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