分かりやすさから分かることは
職業的にそういう訓練を自分に課して来たのはある。
ジャッジしないこと。都合よく切り取った分かりやすさでそのひとを判断しないこと。全体として受け止めること。
そうは言っても、私が何十年もかけて作った価値観という枠組みフレームを通して世界を、事象を、人を見るわけだから、そこに私という視点が入り込む以上は、バイアスから自由になることはできない。
忘れちゃいけないのは、バイアスを無くそうとすることじゃなくてw、今自分はバリバリにバイアスかけて見てるんだよなと心の片隅では斜に構える自分を持っておくことだと思う。
24時間テレビ1日/365日の人に比べたら、仕事を通してちょっとは長く障害や病気を持った人に接してきたけれど、その方たちは、別に障害者なだけじゃない。夫でもあるし、父でもあったり、妻でもある。AKBのサッシーが推しメンだったり、ジブリが好きだったり、お気に入りの演歌歌手を井の頭公園に毎週応援に行ったりもする。サウナとビールが好きで痩せたいんだか太りたいんだかわからかったり、家族より馬を選んだと優駿と睨めっこしてたり、朝ドラに涙したり、歴史の渦に巻き込まれてハルピンで育ち中華大飯店越えの饅頭を作られたり
障害というのはその人を構成するエレメントの一部であって、全部じゃない。シングルイッシューだけで切り取ってカワイソウナヒト、私たちが施す対象とみなすのは、暴力的ですらあると私は思う。
勿論、不自由さに対する理解やマナー、経済も含めたケアも保障も必要なのは言うまでもないけど。
少し前に話題になった映画だからご存知の方もおられると思う。
ー愛について語るときにイケダの語ること
イケダさんを、小人症の障害者と切り取るのか。ガン患者と捉えるのか。イケメンタグを貼るのか。セックスへの依存にクローズアップするのか。または、イケダさんから目を背けるのか。
イケダさんを見ないことにする人が一番多いんじゃないかなと思う。
イケダさんはその全てを拒否するような気がする。そんなわかりやすさで俺をわかったようなつもりになるなよって笑うような気がする。
沢山の自分を構成する要素で私たちはできていて、それは単語帳みたいなタグを何十何百と貼り付けたって網羅できるものじゃない。
だから、私は背が高いとか、低いとか、イケメンだとか、美人だとか、ハゲてるとか、ハゲてないとか、腹が出ているとか、短足だとか、車椅子に乗ってるとか、白杖をついているとか、見た目のわかりやすさだけからその人がどんな人なのかの情報までを得たと思いたくない。
そんなわかりやすさからは何もわからないと、クソ食らえと思うから。
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