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想像力と私と仕事と(改題)
#この仕事を選んだわけ
村上龍の「5分後の世界」という小説が好きだった。グイネス・パルトロウの「スライディングドア」という映画も好きだった。
どちらも、ほんの僅かな差で人生が大きく分岐していくことをパラレルワールドに描いて、たらればないと言うけれど、もし?という想像力を掻き立ててくれる作品だ。
翻って、現実の世界はどうかというと、私は、もし明日何が起こるか分かってしまったら、明日を楽しみに生きることもできないだろうし、わからないからこそ生きることができるのだと思っている。
でも、もし?という想像力を他者に対して無くしてしまうことは、優しくないギスギスした自己責任論の蔓延する世界を作ってしまうんじゃないだろうか。
私は、事故や病気で、それまで健常者として生きてきたけれど人生の途中から障害者になったという方たちが、就労したり、自宅に戻り地域で生活するのを中継基地的に支援する施設で働いている。
ふうん、大変そうなお仕事ですね。とか。
エライですねとか。言われることが多い。
その度にイエ、大変さにも向き不向きがありますからとか
意味不明な返事をして相手を煙にまいているのだけれど、
それは、たまたま私は目立って公的に認定される障害がないということになっているだけで、普通なんてのも心身ともに健康なんてのもグラデーション、度合いの問題でしかないと思うからで、彼我の違いはそんなに大きいのかなと思うからだ。
それに、この仕事についたおかげで、気付かされたこと、特に子育てにおいて、私が勝手に良いとか悪いと思うだけでそこには優劣はなく、原理原則として(サンデル先生風に)その子であることを尊重するのだと知って臨めたのは、後々のお互いの関係にとって大きかった。(と言いながら、離婚しておりパートナーシップを構築できなかったので、私の気づきもまだまだ発展途上中)
もし、障害ゆえにカラフルで多様な身体を生きる方たちと仕事として日々共に仕過ごしていなかったら、もっと一義的な価値観で(例えば学歴とか人生の勝ち組とか)子供をギリギリに縛っていただろうと恐ろしい。
表面的には私が身体介助をしたり、コミニケーションを補うお手伝いをしているが、病前と病後二つの身体で人生を生きている方たちに教えられることは多いし、一度は死の淵を覗き込んだ方の何気ない一言にはリアリティがあって、ミイラ取りがミイラになる日々だ。
受精卵が細胞分裂を繰り返して私たちは形作られるけれど
その複製のミスは誰にでも起こりうるし、また誰にも防ぐことも避けることもできない。実際この瞬間にもコピーミスは私の身体でも起きている。
自分の時は起こらなかった変異?を引き受けて生まれた人たちと自分の差は大きくはない。
生まれるという行為を選ぶことのできた人はいないし、私たちは誰もが産み落とされた命だ。神の領域。
普通に暮らす人たちは、障害や病気の人たちを大変な人、可哀想な人とカテゴライズして、同時に私たちとは関係のない人、別の人たちと遠ざける。
いや、そんなことはない。
今日のあの人は、明日の私かも知れない。そう思って同じ景色を見ると違う何かが必ず見える。それが5分後の世界なんだと思う。
身体や脳の働きは病前とは違っても、それまで以上に深く強く人生をその身に引き受けて生きておられる姿に教えられる日々をこれからも重ねたい。