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不惑を過ぎた炭鉱のカナリヤ
この半年以上朝ヨガをオンラインでやっているのだけど
寝ぼけ眼で寝ぐせボサボサでマットを広げる私に
yoginiの先生たちの声は朝日のように柔らかく耳に優しく
身体と心に向かって語り掛ける言葉は
目覚める身体にに染み渡り
力技でねじ伏せ無理にどうにかしようとするのとは違って
扱いきれないものは、そっとそのままそこに置いておきましょうと
吐いた息とともに流せる分だけ 内側のおしゃべりが鎮まる
それは、先生たちが、ご自分が全身全霊かけて取得したヨガの技術とその本質を
言葉とムーブメントを惜しげもなく余すところなく使って
画面の向こうの生徒たちに向かって届けようとする
真摯さに裏打ちされている
ボディとマインドに至上の朝ご飯
食べたものが私の身体を作るように、自分に向けられた言葉や声、目にした文字、インプットしたものたちが私の中に沈殿する
それらは気が付かないうちに私の内部を侵食して、時に胃酸にも負けずに胃壁を破って胃に穴をあけることもあるし
ほっこり私の内部に明かりを灯してくれることもある
それにしても私たちは無意識に、無防備に、無思慮に日々更新される大量の情報を目にしすぎている
自分の目に入れるもの、耳に入れるものを濾過しないと、私の少さな器はすぐに一杯になってしまって満腹に。
結果本当に必要な情報にリーチが足りないで、ずっとそこにハチ公のように待たせているのかも?
何で自分を満たすか。清々しい朝の空気、鈴のような声。自分の内側にひたすら意識を向けて微細な感覚との対話に気づくよう、手を変え品を変えアーサナーを変えて、先生は私たちに呼びかけてる気がする。
目の前にあるものや、垂れ流しにされるものを、受け取りすぎている。受け取ったものを鵜呑みに信じすぎている。私の頭は通過駅?苦笑 もちろんこのSNSの時代に、スタンドアローン貫くのも土台無理だ。
玉石混交?そこ、賽の河原かもよ。
だけど、自分の頭で自分の足で能動的に手にしたものが少なすぎる。見たいか、見たくないか、知りたいか、知りたくないか、そう思う前にもう見ているし、情報をインプットしてしまっている。そうして脳は画像に漬け込まれて塩分濃度が飽和してる。
正真正銘のオバサン。私は半分以上アナログで出来ているから笑 煙たがられてもそこには敏感なんだと、羽に白髪が交じる炭鉱のカナリアが、かすれた声で鳴いている。