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作品が語りかける声に

東京藝術大学の学園祭、藝蔡に行った。コロナで中止が続いて3年ぶりの対面開催とか。

但しこのご時世、入場は事前予約制で、あのカオスな空間に出入りする自由さがないというのは、芸術とはなんぞやと思うと腑に落ちないところがある、というか本当は事前に下調べする綿密さ用意周到さがない性分で、何ヶ月も前から行くと決めていたくせに、チケット販売について知ったのはその前の週という大失態をやらかしたのが悔しかったから、こんなことを言っているわけではない。

アートマーケットという美術学部の学生さんたちが作品を販売しているフリーマーケットのエリアは例年通りに開催されて、私はそこで学生さんの作品を見たり、お話するのを楽しみにしている。

普段作っておられるものからは、肩の力を抜いて息抜きとして、良い意味の遊びとして作ったものを並べているのだと思う。まさか授業でガチで製作しているものを、フリマなんかで売れるはずがない。それはDM出して、カタログ作って、しつらえた空間に展示して日の目をみるものだと思う。

でも、小さな楽しい作品たちも、作り手の世界観を反映するものだし、その人らしさを感じさせないわけがない。私は絵画よりも、土をこねて作る人や、彫刻、平面よりも立体の人に惹かれるみたいで、素敵だなあと思うのはそのジャンルの人の作品に偏る。

スポーツでも其のポジションの人に多い気質というか、向いた適性があるように、ものを作る人にも、鉄を打つ人と粘土をこねる人には違いがありそうだ。

私が作品を購入するのは、それが小さかろうが、大きかろうが、三百円のステッカーだろうが、8万円のリトグラフだろうが、作り手との間に物語が共有できたと思う時だ。どんな思いで作ったのか、どんな祈りを込めて作ったのか、作りながら何を感じたのか、今さっき会ったばかりの彼女と作品を媒介して、彼女の語る世界に私も住むことができた、2人の間に何かが通ったと思う時には迷わず購入する。

逆にいえば、素敵と思っても、物語が流れないときには、その作品とは残念ながらご縁がなかったということになる。

今日も鋳物だという銀色の小さな生き物を連れて帰ってきた。星屑動物と名付けられた手のひらに乗るような鈍く光る、彼女の産み出した生物。飛ぶ立つ羽を持っているけど、厚みがあって飛べるのかは心許ない。翼はイルカや鯨のヒレのようにも見えて海洋生物なのかもしれない。足も3本意外と太い。走るんちゃうか?でも、上向きの揚力をこの生き物から強く感じる。飛びたいと。私は飛べるんだっていう強い意志。

ホンダのスーパーカブを友人から譲り受けて、壊れてたパーツは自作したんですとはにかむように静かに微笑むお嬢さんが愛らしくて、このランプも自分で色を塗ったんですよと。どこでもバイクで行くんです。今日もこのバイクに詰めるだけって思ったら、小さいこの子達しか連れてこれなくてと。普段は人物の彫刻やっていますとお名刺いただく。

ロダンとか高村光太郎のやつ。ガチンコ王道のやつ。塊の中から人間削り出す人達。

作家さんもまた、この子飛べるのかなぁって思いながら作ってましたと話される。作り手のメッセージを無言で受け取れたこと、感性が作品を通して共鳴したことを確認したら、即断即決お会計。あとはお金の出番だ笑

彼女はきっとこれからも、飄々とスーパーカブに詰めた荷物だけ持って、どこへでも行けて、そして作品を作り続けるんだろうなと、ふと思った。

綺麗とかうまいとかにはミリもミクロンも魅力は感じない。それは素人がカラオケで上手く歌うのと同じだ。そこにどんな世界観を込められるか、その人の生き様の問題だ。それがなければ作品が見る人と対話することもできないし、胸を打つこともないのだろうと思う。

そんな話をドヤ顔で帰宅して、ボソッと長女。

ーそれな。物語は一円の銭にもならないから、商業ベースに乗った表現では一番最初に削られるんだよ。産業ロック髭ダンと同じだね。でも本当のアートには世界観が命だよ。表現物はあくまでもそれを伝える手段で、作る人が伝えたいのは世界観、自分に見える世界をどれだけ作品に込められるかなんだよ。

3年前の藝祭では気づかなかったな。生後8ヶ月のベイビーだけどnoteに書き始めて初めて感じたことだ。50の手習いはしてみるものだ笑

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