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子どもは「教育」されるべきもの、と思われてきたため、「いつも精一杯生きよう」「より良く成長しよう」という心を失ってしまった

子どもは、
「いつも精一杯生きよう」
「より良く成長しよう」

と思っています。

子どもは人間の初期段階ですから、
大人と言われる人も、子どもの時には、そう思っていたのです。

でも、大人になってしまうと、いつの時からか、それを忘れてしまいます。


だから、大抵の大人は、
子どもは、何の力を持っていない、教えなければならない
と思っています。

そう考え、子どもに「教育」をしてきたために、
子どもは大人になる過程において
「いつも精一杯生きよう」「より良く生きよう」を思わなくなりました。

そして、代々それが受け継がれてしまいました。

「教え・育て」なければ子どもは育たない、と。
「教育」が必要だと。

乳児期。

自分一人では生きていくことはできません。
だから、してほしいことを泣いて伝えます。

自分が泣いたことに対して、大人なり親なりが対応してくれます。
子どもは泣いたことに対し対応してくれると、安心感を得ます。
繰り返し泣いて、自分の要求を伝えても大丈夫だと感じます。
そして、安心感を得ていきます。基本的信頼感が育ちます。

でも、自分が泣いたことに対して、親が対応してくれなかったら?
繰り返し泣いても、何も対応してくれなかったら?
いずれ、泣くことをやめます。要求を伝えることをやめます。
安心感を得ることなく、基本的信頼感が育ちません。

子どもは、はじめは不安を感じ、少しずつそうした感情さえも持たないようになります。人間としての感情を失っていきます。

幼児期。

まだまだ一人で生きていくことはできません。
自分一人で移動はできるようになっても、してほしいことを伝え、それに応えてもらわなければ生きていくことはできません。

「抱っこしてほしい」と言えるようになっても、抱っこしてもらえなかったら、安心感を得ることができません。

少し応えてもらえなくても、繰り返し「抱っこしてほしい」と訴えます。
2回に1回、5回に1回、10回に1回になっても、子どもは訴え続けます。
あきらめません。その過程で、子どもの感情は壊れていきます。

子どもらしい感情、人間らしいは失われてしまいます。
生きづらさを抱えて生きていくことになります。


幼児はとても好奇心旺盛です。
その塊と言っても過言ではありません。
しかも、将来のために、なんて思いません。
純粋に、やりたいことはやりたいのです。
いつも遊んでいたいのです。

幼児は「遊び」が生活の中心です。
どれだけのことを「遊び」から学ぶか、それは計り知れません。
知識もさることながら、人間関係まで。
しかも、子どもそれぞれの発達に合わせて、必要なものを、適切に、自然に身に付けていくのです。

この「遊び」の中で、この自分の好きなこと、自分のしたいことを見つけます。そして、自分でやってみて、自分で確かめていきます。

本当は、それをもっともっとやりたいのです。
自分で体験し、自分で感じ、自分で結果を受け止めたいのです。

それは、「子どもは自分で成長する力」を持っているからです。

でも、それを親が「間違っている」「できるわけがない」としてやめさせてしまいます。
大人の、親の「正しい」という価値観で。これまで受けてきた「教育」のせいで。

子どもは、大人の、親の言うことが「正しい」と勘違いしてしまいます。そして、その「価値観」が正しいとしてしまうのです。

こうして、幼児としての爆発的な意欲を失っていきます。
自ら学ぼうとしなくなります。

児童期。

学びに対する意欲は、本来はさらに向上していきます。
幼児期に、したいことをさせてもらえればなおさらです。

でも、学校に入り一斉指導を強いられます。
自分のやりたいことは制限され、みんな一緒の「教育」を押し付けられます。

それを「いやだ」と拒否することはできません。
それを「できない」と許されません。


自分のしたいことはできなくなり、したくないことを「できるようになりなさい」と言われてしまうのです。

その結果どうなったか。
不登校児童が多くなり、引きこもりの人が多くなりました。
自ら命を絶つ子どもも、年々増加しています。


子どもは、
子どもは、何の力を持っていない、教えなければならない、
子どもがしたいようにさせては大人になれない、
と思われ、

子どもは「教育」されるべきもの、
と思われてきました。

そうされてきたため、
子どもは、大人は、人間は、
本来持っている、

「いつも精一杯生きよう」
「より良く成長しよう」


という心を失ってしまったのです。

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