いつの世も、どこの国でも、誰にでも・・・起きるかもしれない「福田村事件」の衝撃
きのう9月6日は、100年前に発生した関東大震災の9月1日と共に思いを寄せるべき日 ーー「福田村事件」が起きた日だ。
「福田村事件」とは、1923年9月1日の関東大震災の5日後、「朝鮮人が暴動を起こした」というデマが広がる中で、福田村(今の千葉県野田市)で、讃岐から来た行商の一団が、住民たちから朝鮮人だと言われて襲われ、妊婦や子供を含む9人の命が奪われた悲惨な事件だ。
先日、その事件を描いた映画「福田村事件(監督 森達也)」をみた。
一言、衝撃的すぎた。
ネタバレになってしまうので詳細は書かないが、映画はあまりに多くの問いを私に投げかけてきた。
「今、外国人との共生もなかなか進まず、日本人同士の差別もあるこの国で、大地震が起きた時に同様の事件は起きないって言えるか?」「巻き込まれたら自分はどうふるまえるか?」「絶対加害者にならないって言えるか?」「絶対被害者にもならないと言えるか?」「いや、絶対に”傍観者”にならないって、言えるのか?」「そもそも、なんでこんなことが起きるのか?この事件は特殊な事件だったって言い切れるのか?」
そんな問いに頭を抱えていた時、同じくこの映画をみたという、日本に住む知り合いの中国人の言葉は、意外だった。
処理水放出をめぐっての中国の対日ネガティブキャンペーンが始まって以来、彼が日本での生活を紹介しているSNSの投稿の、中国のフォロワーからの「いいね」の数が一気に激減。それにとどまらず、理不尽な罵りや嫌がらせのコメントまで来るようになったという。また、ヒステリックに恐怖を叫ぶコメントも。
そして、しばらくして中国の官製メディアが自制を呼びかけるような社説を出した後は、まるでそれにあわせたかのように、嫌がらせも急に減ったのだそうだ。
つまり、何かに操られるかのように群衆が一斉に過激な動きをする怖さを感じたとのことで、もちろんその度合いこそ全然違うが、この映画の中の狂っていく普通の人たちの集団と重なって見えるところがあったのかもしれない。
それを聞いて感じた。この事件は、いつの世も、どの国でも、そして誰にでも起きうる悲劇なのだろうと。なのでこの事件を、薄っぺらに右だ左だとレッテルを貼っての議論の対象にすべきではないと。
映画の中で、日本社会で差別も受けてきた行商団の人たちが、朝鮮の人と比べてどっちが「上」だ「下」だと無邪気に話すシーンも脳裏に焼き付いている。
「上下」をつけることで、全体の秩序が保たれると考える人は、残念ながら私の職場を見ても少なくないようだが、やはりこの、時に理不尽で、時に根拠不明な「上下」のレッテルや意識が、様々な悲劇をもたらすのではないだろうか。そして、それは人間が古来から繰り返してきた様々な過ちと関係があるのではないだろうか、と。
福田村事件は、世界中の誰にとっても、身近に潜んでいる危機のような気がした。
いざという時、自分に何ができるだろうか。加害者にも被害者にも、傍観者にもなりたくない。