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「ニ人称の死」を考える。
養老孟司さんのYouTubeを見ていて、本当に印象的な言葉に出会いました。それは「二人称の死」という言葉。これまで考えたこともない考え、これまでに聞いたことのない言葉でした。でも、この話を聞いてから、この「二人称の死」という言葉が頭から離れなくなりました。
一人称、二人称、三人称という「3つの死」。
普段はあまり考えてこなかった「3つの死」の話の考え方を聞いて、今まではあまり考えなかったことを考えられるようになりました。
まず「一人称の死」。これは、自分自身の死のこと。養老さんは「自分の死は自分は見ることができない。」とおっしゃっています。そのとおりですよね。死ぬ直前までは分かっていたとしても、死んでしまった後は、おそらく分からないはずです。つまり、「自分の死は自分は見ることができない。」ってことです。
そして次に「二人称の死」。自分の家族や友人など大切にしている方、近い関係のある方の死のこと。ボクも経験がありますが、自分の大切にしている人の死については、本当に涙が止まらないくらい悲しいし、立ち直れない…と感じることさえあります。時には、人生をひっくり返されるくらいの衝撃があります。
最後に「三人称の死」。これは、あまり関係ない方の死のこと。例えばニュースで見た全く知らない方の死のことです。「何人亡くなりました…。」みたいな話だとなかなか自分事として捉えられません。
この「3つの死」について考えた時に、ボクらに関わってくるのは「二人称の死」だということです。「一人称の死」は分からないし、「三人称の死」はあまり関係があるとは思えないから。養老さんは、「『死』というのは『二人称の死』のことを指す。」とおっしゃっています。そのとおりだな…と思いました。
ボクらの周りの「二人称の死」について考える。
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この「二人称の死」という言葉から考えた時に、僕たちに今の状態で「二人称」になる人たちというのが、すごく少ない…と感じています。おそらく昔は、近所のおっちゃんだったりとか、大家族で家族がいっぱいいたりとか、そんなことがあったけど、今は本当にだんだん少なくなってきているのが現状。
自分自身もそうだったのですが、親が仕事のためにもともとご先祖さまが暮らしてこられた地域から都会に出ていって暮らす方が増えていたり、だからこそ多くの家が核家族になってきていたり…で、近くで一緒に暮らす人が少なくなってきていること。
そして、看護師の方と話していて教えてもらったのですが、医療が発達してきたことで小さなお子さんが亡くなることが少なくなってきたり、大きな病気をしても長く生きることができるようになってきた…というなどことも、近くで「死」を経験することが少なくなってきているんだと思っています。
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もう1つ、京都の建仁寺両足院の副住職である伊藤東凌さんは、「『死』を脱色することで、生活から遠ざけてきた。」という表現をされています。その言葉どおり、おそらく昔はもっともっと「死」が近くにあって、もっともっとリアルだったはずです。
「先祖を大切にしなくなった…」など、今の時代を憂う声も聞こえてくることがありますが、「大切にしなくなった…」というか、昔は「『死』が近くにあった」こととか「誰かが亡くなってしまった時に、どうしてもしなくてはならなかったこと」がたくさんあったことで、「死」について思う機会も多かっただろうし、お墓さんやお参りが大切にされてきていたんだと思うんです。
だけど、今は「『死』から距離ができてしまった」こととか、「誰かが亡くなっても、いろいろとする必要がなくなってきた」ことで、「死」を思う機会は少なくなり、お墓さんやお参りも少し意識が薄れてきている部分があるんだと感じています。
今だからこそ、あえて子どもたちと「死」について語りたい。
少なくなってきたとはいえ、ボクらは「二人称の死」に出会うことを免れることはできません。ボク自身も「二人称の死」と言える大切な方とのお別れを何度か経験してきました。
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特に、20年ほど前に大切な師匠を亡くしたことがありました。それはそれは大きなショックで、向き合うことさえできないまま、たくさんの時間が過ぎてしまっていました。普段はほとんど話題にすることもなく暮らしてきましたが、先日「グリーフケア」という考え方に出会って学び始めてから、少しずつ向き合うことができるようになってきました。
ボク自身も核家族で育ちました。そんなボクもでも衝撃的な大切な方の「死」と出会いました。今の時代、少なくなってきているといっても、どんな人も間違いなく「二人称の死」に出会います。その「二人称の死」を経験すると、本当にショックで、全てがひっくり返ってしまうほどの衝撃を受けることさえあります。
こういった話になると、ボクはいつも息子たちのことを思います。息子たちが、これから出会うだろう「二人称の死」。おそらく、彼らはボクら以上に「死」と遠ざかっている状況にいると思っています。だからこそ、あえて今、「死」について語りたいと思っています。ただ、それは直接的な「死」の話ではなく、もうすでに亡くなってしまったご先祖さまのことや、もう今は天国にいるボクの大切な友人のこと。
おそらくご先祖さまや友人のことを語ることは、同時に大切な人と向き合って生きるか…って話を語ることになるだろうと思います。だからこそ話してみたいんです。そういう話を通して、おそらくこれから子どもたちが出会うだろう「二人称の死」と向き合える心を育てていけたらいいな…と思っています。
庵治石細目「松原等石材店」3代目 森重裕二