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ホールデンが教えてくれたこと


 娘は音大生なのですが、全学生が学費、寮費、食費免除のとても小さな学校に在籍しています。その娘が、口を開けばとにかく学校経営や教授、設備、環境に関する文句が後を絶ちません。いつもはフンフンと黙って聞いている私ですが、先日はつい耐えきれず、苦言を呈しました。



 「娘の学校が全額支給という特殊な制度を設けているのは、学生がアルバイトなどせず音楽に打ち込めるようにという、他でもない学生のための方針。それを実現するためには、それなりの寄付金を募る必要がある。大学は、あくまでも“学生ファースト”であるべきだが、運営陣が、ドナーと学生の狭間で、時として学生に我慢を強いるという本末転倒な状況に陥ることは、チャリティにはわりとありがちなことだ。もしも人権侵害だと感じるレベルの事案があった場合は、声を上げるべき。理想としては、生徒会、自治会のような組織を作り、正式に改正を訴える。そういったアクションを何も起こさずに愚痴ってるだけというのは、投票に行かずに政治の文句を言っているのと同じだ」

 という内容のことを言いました。これに対して娘はぐうの音も出なかったわけですが、こういう正論をかざす時、私はきまって、自分を『ライ麦畑でつかまえて』のアントリーニ先生に重ね、軽い自己嫌悪を覚えるのです。


 私が『ライ麦畑でつかまえて』を初めて読んだのは、高3の冬でした。以前、『私の中の小さな武士』というタイトルで書いた文章に登場したキザで知的な友達Kくんが、「きみはもっと自分の殻を破るべきだ」と言って貸してくれたのでした。

 衝撃でした。


 私は当時、とかく先生だとか親だとか、自分の尊敬してる人を頭の中にまつり、想像上でその人たちの顔色を伺う、といったことをしがちでした。ちょうど人生初の大きな挫折を味わったばかりで、自分はこれまで、尊敬する人がいかにも賛同してくれそうな選択をしてきたというのに、このていたらく。実体のないものに裏切られ、恨む相手も見つからず、ただ自分の愚かさに打ちのめされていたのでした。誰かの期待を推し量ることを自分の意思と混同していたということに気づき、私は何をどうしたかったのか、完全に路頭に迷っていました。『ライ麦畑でつかまえて』を読んだのは、そんな時だったのです。



 私は、ホールデンになろうと思いました。相手が誰であっても、迎合することを一切やめました。野崎孝訳を何度も読み、大学に入ってからは、原語『the Catcher in the Rye』を繰り返し読みました。ホールデンに近づきたい一心で、サリンジャーの作品を片っ端から読みました。そして新しい友達ができると、『ライ麦』を読んだか聞くのです。未読であれば、Kくんが私にしてくれたように本を貸し、いちいち感想を聞く、というウザいことを繰り返していました。


 ほとんどの人が、個人差はあれど、大人の汚さやズルさを忌み嫌うホールデンに自分を投影していました。ところが、大学入学時から一番仲良くしていたMは違ったのです。貸していた本を私に手渡しながら、

「悲しくなっちゃった」


と言うのです。




 「だって、私はどうせホールデンから嫌われる。みんながホールデンみたいに強くなれないってことを、ホールデンに分かって欲しい」と。


 私は、仲良しのMとホールデン愛を共有できず、がっかりしました。


 その後、青春時代と呼べる時期をとうに過ぎても、『ライ麦畑でつかまえて』は私の心の特別な場所にあり、ホールデンはもはや、自分の一部となったとさえ思っていました。



 数年前、あまりにも本を読まない娘に、「お母さんが貴女ぐらいの年頃に読んで大事にしていた本だよ」と『ライ麦畑でつかまえて』を手渡しました。私もさすがに詳細を忘れていたので、読み返しました。するとどうでしょう。私は、あの時Mが言ったのと全く同じことを感じたのです。



 世の中のインチキをバッサバッサと斬るホールデンにあれほど陶酔していたのに、今は、ホールデンの矛盾にばかり目が行くのです。



 男性教師や男友達には容赦ないのに、女性には概ね甘いところとか。放浪するといっても、飲酒や交通費は親のお金とか。貧困層や地方出身者に対して抱く気まずさとか、彼らとの間に置く距離とか壁とか。


 それ、典型的なアメリカの白人富裕層の息子じゃん。


 そう思ってしまったのです。そして、気づいてしまいました。ホールデンが認めるものは、亡くなった弟の思い出と、いつか必ず失われる妹の純心だけ。つまり、実在しないものだということに。ホールデン自身もインチキだし、インチキでないものは、この世で生きられないということに。




 大人になって読み返し、私が一番親近感を感じたのは、アントリーニ先生でした。アントリーニ先生は、ホールデンを否定せず、しかしホールデンのような真っ直ぐな人間が生きるにはこの世はあまりにも生きづらいということを、コンパッションをもってホールデンに伝えようとしますが、ホールデンから少年性愛者だと勘違いされ、拒絶されるのです。


 娘に正論をかざす今の私を、インチキで嫌ったらしい大人だと、あの頃の私は蔑むでしょう。私も、長年自分の一部だと思っていたホールデンがもう自分の中にいないことを寂しく思います。でも、あの頃この本と出会って良かったと思います。なぜなら、今の自分の弱さに気づかせてくれるのは、あの時出会ってしばらく私の中に居住していたホールデンだからです。


 ちなみに、村上春樹訳ももちろん読みましたが、繰り返し読んだ野崎訳の、ホールデンの独特な口調が私は好きでした。


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