感情
自分が「怒っている」ときは、
相手を責めることでいっぱいいっぱいになる。
怒ることが、良いとか悪いとか、
そんなことを考える余裕もなくなる。
一方で、
他の誰かが同じようなことで「怒っている」のを見聞きすると、
そんなに怒らなくてもいいじゃないか。
もう少し、大人な対応をしてもいいじゃないか。
そんな風に、案外冷静になれたりするものだ。
例えば、お母さんが子どもを怒る。
そうすると、横で見ているお父さんは、
「まぁまぁ、もういいじゃないか」そうやって止めにはいる。
今度は逆に、お父さんが子どもを怒っていると、
タイミングをみて、お母さんが、
「もう反省してるから許してあげたら」そうやって仲裁にはいる。
同じようなことで怒っているのに、
「怒っている本人」と
「怒っている人を見ている人」とでは、
感じ方や、見えている景色が全く異なる。
あなたは経験ありませんか?
自分がめちゃくちゃ腹たったとき、
自分がめちゃくちゃムカついたとき、
そういうときは、我を忘れ怒って、
怒りのエネルギーを思いっきり相手にぶつける。
一方で、
他の誰かが同じようなことで怒っているのをみると、
なんだかネガティブな気分になったり、
ちょっと引いてしまったり、
怒られている相手が可愛そうに思えたり。
自分だって、同じようなことで怒っているのに。
どうしてこうなるのか?
それは、「怒る」という行為は同じでも、
「自分」と「怒り」の感情が、
同期しているか否かの違いだと思う。
「自分」は自分であって、決して「怒り」ではない。
正しくは、
「自分」が、「怒り」の感情を「感じている」のであって、
「自分=怒り」ではない。
しかし、「怒り」というエネルギーは強烈で、非常に厄介だ。
一度、「怒り」の感情を覚えると、まるで、
「自分」という存在が「怒り」であると錯覚する。
そういう風に感じてしまう。そういうモードにはいってしまう。
でも本当はそんなことはなくて、
ただ、そのときその瞬間に、
「自分」が、「怒り」の感情を「感じている」だけ。
だから、
「ああ、そうか。自分は今、怒りの感情を感じているんだな」と、
客観的に「自分」と「怒り」の感情を切り離して捉えれば同期することはない。
「怒っている人」を見ても冷静でいれるのは、
そもそも、「外側から見ている」というスタンスだから、
「自分」と「怒り」とは切り離されているから同期することもない。
程度の差はあれど、
人は生きていくうえで
「怒る」ことなく、
「怒る」と無縁の生活をおくることは難しい。
日々の生活のなかで、怒ってしまうことはどうしたってある。
だから「怒ること」を問題視しなくてもいいんだ。
ただ、「自分=怒り」ではないんだ。
「自分」が、そのときその瞬間「怒り」を「感じている」んだ。
「自分」と「怒り」を切り離して考えるようにすると、
怒りが通り過ぎる時間も変わってくる。
「自分」と「怒り」が同期した場合も、
それを切り離せるのは自分しかいないのだ。