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会津戦史 番外編 慶応4年8月16日 河合継之助
慶応4年8月16日(新暦10月1日)
長岡藩の天才軍略家である河合継之助が亡くなった日です。
10月の只見、そちこちの樹木が色づき始めた初秋でした。
彼は最期まで武士らしく、遺体を火葬し遺骨を長岡に届けるように、と言って、自らを燃やす火を庭に焚かせました。
その炎を見ていた継之助は何を想っていたのでしょう。
そして、自分の遺骨を納める箱とは別にもう一つ箱を用意させて、もし西軍に見つかったら
会津戦史 慶応4年8月31日~9月6日
8月31日、日光口の西軍はついに大内宿に到着、一泊して翌9月1日出発しました。そして9月4日、ついに会津盆地に侵入し本郷に到着しました。3つのルートに分かれていた西軍でしたが、白河口に続き日光口が到着したわけです。
9月5日(新暦10月20日)
本郷に到着した西軍はついに大川渡河に成功、会津城下町に迫りました。彼らが住吉に集結しているところを、
遊撃隊となっていた佐川隊が急襲!
予想外の襲撃
会津戦史 慶応4年8月29日
8月29日(新暦10月14日)
会津兵は反撃に打って出ました。鶴ヶ城内から佐川官兵衛率いる決死隊1千名が融通寺町口、桂林寺町口から出撃し、西軍諸兵に猛攻をかけました。
隊は二手に分かれ敵を挟撃する形となり、槍対銃という構図ながらも会津優勢となり、戦闘は城の北西にある泪橋まで広がり、一時ここを占領することに成功しました。
西軍諸兵は長命寺に逃げ込み、会津兵は更にここへ猛攻を加え長命寺も占拠しまし
慶応4年8月27日~8月28日
8月27日(新暦10月12日)
越後口の西軍はついに只見川の西岸片門村に到着します。会津兵は舟橋を撤去し、銃口を並べて待ち構えていました。とはいえ、只見川を渡れば会津はもうすぐそこというところまで来たのでした。
このジリ貧の状況を立て直すには、外からの援軍が必要でした。会津藩は米沢藩に対し、白河城での敗北以降、再三の援軍要請を行いました。
しかし、米沢藩は援軍を出すことはありませんでした。米沢
会津戦史 慶応4年8月26日
8月26日(新暦10月11日)
前日占拠された小田山から激しい砲弾が鶴ヶ城に向かって撃ち込まれました。西軍の狙いは天守閣の破壊だったようです。砲弾は城内のいたるところに着弾し多くの人々が亡くなったそうです。
城を倒壊から救ったのは、江戸から来たとび職だそうです。そして火災が発生すると婦女子らは布などを湿らせ覆うなどかなり危険な消火作業を行ったそうです。タイミング悪く布を覆う瞬間に弾が炸裂して死亡
会津戦史 慶応4年8月24日~8月25日
8月24日(新暦10月9日)
照姫護衛のため坂下に向かった中野コウら20余名の娘子軍(後の俗称、当時は名前なし)は、そこで照姫はいない、つまり誤報であったことを知らされました。やむなく滞在していた萱野権兵衛隊に合流を求めたのですが、萱野に断られました。萱野は気骨ある士だったため、死を覚悟した戦いに婦女子を伴うことをよしとしなかったようです。途方にくれた娘子軍でしたが、そこにいた旧幕軍衝鋒隊に何とか