慶応4年8月27日~8月28日
8月27日(新暦10月12日)
越後口の西軍はついに只見川の西岸片門村に到着します。会津兵は舟橋を撤去し、銃口を並べて待ち構えていました。とはいえ、只見川を渡れば会津はもうすぐそこというところまで来たのでした。
このジリ貧の状況を立て直すには、外からの援軍が必要でした。会津藩は米沢藩に対し、白河城での敗北以降、再三の援軍要請を行いました。
しかし、米沢藩は援軍を出すことはありませんでした。米沢藩では既に恭順派が実権を握っていたのです。米沢では、越後での敗退後、恭順派が台頭し土佐藩の斡旋で降伏の道を選びました。
米沢にて援軍要請を断られた桑名藩主松平定敬は失意のまま仙台へと向かったそうです。
奥羽越列藩同盟は、盟主米沢藩の離脱により完全に瓦解しました
8月28日(新暦10月13日)
米沢藩は西軍に降伏しました。
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