ぼくと「ぼく」のこと。もしくは、孤独の和らげ方。(雲と鉛筆/吉田篤弘)
平日の住宅地は、とても静かだった。ぼくのアパートの近所の話じゃなく、少しだけ遠出したときの。
この「少しだけ」は、自転車で20分くらいのこと。遠出と言えるほどの遠出じゃないと思う。でも、その住宅地へ訪れたことはあんまりなかったから、ぼくにとっては遠出のようなものだった。近くても遠くても、知らない場所であることに変わりはない。
と、同じようなことを、『雲と鉛筆』の「ぼく」も言っていた気がする。
そのときぼくは、住宅地の中を突っ切るように流れる用水路沿いにあるベンチに腰かけて、本を読んでいた。(『雲と鉛筆』じゃなかったけど。)眼科を受診予約していたんだけど、早く着きすぎたのだった。
それにしても、静かだった。人も車も通らない。広くないとはいえ、どちらも通っていいはずの道にいたんだけど。ぼくは、haruka nakamuraの『アイル』をSpotifyで流しながら、頁をめくった。桜じゃない、ほとんど白い花を咲かせた木が、少し離れたところに見えた。
「贅沢」とは少し違う。「豊か」? それも、当てはまらないような。ともかく、満ち足りた気分だった。
静かなこと。静かな場所で本を読むこと。その他のこと。本を読みながら、頭の中につらつら浮かんでくることばを、メモ帳に書きとめた。
読むことは書くことだと思う。読まなければ書くことは生まれてこない。
――本文より引用
『雲と鉛筆』には、すてきなことば、というか、ぼくの好きなことばがたくさんあって、メモにも残していたけど、なんとなく覚えているものも多かった。たぶん、「ぼく」の生活をなぞると、そのままぼくの生活になっているところがあるからかもしれない。
「(前略)ただし、答えはどこまでも出ない。答えなんて見つけない方がいいんだよ」
「でも、どういうわけか、みんな見つけたがる。どうしてだろう? 見つけるってそんなにいいことなのかな?」」
――本文より引用
「ぼく」や、「ぼく」の知人の生活を、「理解できない」と切り捨てる人も登場した。まあ、現実もそんなものなので、それはそれでいいと思う。(存在を否定するのは、まったくの別物だけど。)
かく言うぼくも、世間(を誰にすべきかによるけど)から「理解できない」とされた人間だ。(たとえば、ぼくを生んだ人達に。)
でも、そんなぼくの生活は幸せで、満ち足りている。ひどく苦しいときもあるけど、今まで生きてきた中で、今の生活が一番気に入っている。
『雲と鉛筆』は、いつも手元に置いている。いつでも、ぼくが「ぼく」に会えるように。どうにもならない孤独が、少し和らぐ気がするから。
雲と鉛筆 - 吉田篤弘(2018年)