愛を語りて(愛の輪郭/相澤義和)
愛は、「不明瞭」で「抽象的」で、目に見えない。
人は、目に見えないものを信じない。(その存在を証明できるのなら、話は別だけど。)だから、目に見える形で、愛を求めようとする。キスとか、セックスとか。それをすることが、愛の証だと信じて。
*
前作『愛情観察』を愛読書にしている僕だけど、それは同時に、パートナーの愛読書でもあった。だから、『愛の輪郭』がうちに届いたその日は、2人で一緒に眺めることになっていた。
相澤さんの写真は、とてもエロティックだ。けれど、ただのエロティックに留まらないというか、性欲とか官能とか、そういうのとは別のところに働きかけているように思えた。
エロティック……。パートナーのエロティックなところって、どこだろう……。それをここに書くことはしないけど、エロティックかどうかっていうのは、自分が相手をどう思っているのか次第な気がする。たとえば、パートナーの体のパーツで好きなところはあるけど、それは、パートナーが好きだから、そこも好きになった、っていう話だろうし。
世の中には、逆もあるのかな。つまり、体のパーツが好きだから、相手を好きになった、っていう。一目惚れがあるくらいだもんな。あれは、顔っていうパーツが好きになったから、相手を好きになったんだ。
でも、それを「不届きだ」という人もいる。人間は見た目じゃない、中身だうんぬん。
いやいや。見た目も、その人の一部じゃないのか。中身ばっかり見て、見た目は一切見ないのは、それはそれで、その人を否定しているんじゃないのか。……あれ、何の話だっけ。
まあ、結局は、卵が先か鶏が先か、みたいな話になるんだろう。先に好きになったのが、中身だろうが見た目だろうが、相手を好きなことに変わりはない。
セックスっていうのは、微妙な均衡で成り立っている。本来は、愛の名の下になされるべきものだけど、一転して、暴力になることもある。かと思えば、しなかったらしなかったで、セックスレス=愛が無いと認定されることもある。
僕らは何を以て、ソレを愛と呼ぶんだろう?
*
愛は、「不明瞭」で「抽象的」で、目に見えない。
だから、キスとかセックスとか、目に見える形で、人は愛を求める。
それが正解なのかは、わからないけど。君となら、それが愛の証だっていいたい。
触れなくてもわかることはあるけど、触れることでようやくわかることもある。
だから僕は、今日も君に触れていたい。
愛の輪郭。
愛の輪郭/相澤義和(2020年)
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