「海」へ「想」う。(私の船長さん/M.B.ゴフスタイン)
彼はきっと自分の運のよさに
びっくりすることだろう!
――本文より引用
幼いころ、本棚にある本やぬいぐるみに、タオルをかけてから眠っていた時期がある。彼らが、寒がるんじゃないかと思って。
それは、子どもによくあるアニミズム(だったっけ)かもしれないけど。ずっと目を開けて、ずっと座りっぱなしの彼らが、ぼくが眠っている間は、同じように眠っているんじゃないかと。今でも、そんな気になるときがある。
『私の船長さん』は、棚にあるミニチュアの人形が、窓辺に飾ってある船の模型(にいるはず)の船長について、空想を巡らせる話。
人形でも人間でも変わらない。頭の中なら、どこへでも行けるし、誰にでも会える。人形である彼女は、自由に動けない自分に、いつか船長が会いに来てくれるのを想像する。
実際の彼女は、船長の彼に会うどころか、その姿さえ見たことはない。おそらく、これから先も。けれど彼女にとって、そんなことは問題にならない。
彼女は、船長が棚に上ってくるのを想像する。共に食事するのを想像する。冗談交じりにお喋りするのを想像する。そして、船長である彼が航海へ出るのを想像する。彼を待ち続ける自分の姿も。そのすべてが、彼女をあたためる。
会ったことさえないにしても、
窓わくの上の
船長さんの船を見下ろすと、
私は幸せになる、彼がそこにいるから。
――本文より引用
すべて、彼女の想像だ。想像じゃないものといえば、窓辺の船だけ。船長も船員も、そこには見えない。けれど、見えなくていいのだ。たとえ見えなくても、船は船長や船員が乗るものなのだから。いないはずが、ないのだ。彼女は、それがわかっているのだ。
船はどんな様子なのか、彼女は想像をふくらませる。船長率いる航海も。溢れ出すいとおしさを、彼女は撫でる。そんなロマンスが、人形のある部屋で起こっているのだと思うと、ぼくはうれしくなる。
空想する人形。「空想」は、空に想像を広げるから、そう呼ぶのだろうか。じゃあ、人形の船長への想いは、海へ広がっているのだろうか。もしそうなら、「海想」と呼べたらいいのに。海に想像を広げる。航海へ出ている船長まで想いは流れる。そんなものであればいい。
私の船長さん - M.B.ゴフスタイン(訳:谷川俊太郎)(1996年)
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