【小説】将来の夢を思い出した夏
7月の終わりには、高校三年生の夏休みを思い出す。
当時の私は両親の希望もあり大学への進学を考えていた。けれど、将来なにをしたいのか全く決まっていなかった。そんな私とは違って、進路が決まっている友人たちの方が多かった。私はそんな友人たちに比べるとかなり遅れていた。
夏休みに行われるオープンキャンパスに行く予定ではあるけれど、気がすすまなくて溜息ばかりついていた。正直なところ、興味のある学部も大学も見つかっていなかった。やりたいことがなかったのだ。オープンキャンパスも、両親のすすめで何か所か行くことが決まったくらいだった。
毎日のように母親からは「どこの大学にするの?」という質問をされ、家にいることすら嫌になっていた。勉強を理由に夏休み中は祖母の家にいようと決めて、夏休みが来るのを待ち焦がれていた。
祖母の家はそんなに遠くはない。電車で二時間くらいで到着する場所にある。友人とケンカしたり、両親に怒られたり、何かあるとすぐに私は祖母の家に行っていた。私が小さいころに祖父がなくなってから、祖母はひとりで暮らしている。祖母の家は少し不便なところにある。コンビニは歩いていける距離にないし、スーパーも駅前にしかない。しかも、駅まで歩いて三十分はかかる。祖父が亡くなった時、一緒に住まないか?と両親が提案した。交通の便が悪いし、ひとりになってしまう祖母を心配してのことだった。しかし、祖母は首を横に振った。ここは、祖父と過ごした大切な場所だから、と祖母は言った。ここから離れる時は自分が死ぬ時だ、とも言った。
それに、作業部屋を手放すことはできないようだった。結婚してから祖母は洋裁の仕事に勤しんでいた。家の敷地内にある作業部屋は、祖母専用に祖父が自ら作った、と聞いて驚いた。昔はオートクチュールの洋服や着物を仕立てていたらしいが、今は昔からのお得意様限定で趣味程度に作っている。
待ちに待った夏休みに入り、私は急いで祖母の家へ行こうと荷物をまとめていた。すると、慌てた様子の母に止められた。祖母が倒れて病院に運ばれたのだ。会社に行っていた父も急遽帰ってきて、三人で病院へ向かった。ベッドの上で優しく微笑む祖母は、意外にも元気そうで安心した。
少し会話をすると、両親は看護師に呼ばれて行ってしまった。祖母とふたりきりになると、お願いがあるの、と祖母が口を開いた。浴衣を縫って欲しい、と。
本当は祖母が頼まれたものなのだが、検査などでしばらく入院が必要らしい。だが、どうしてもその浴衣は七月中に仕上げないといけないようだ。とは言っても祖母の腕とは比べものにならないほどに未熟だという自覚がある。それは、比べてほしくもないほどの差だ。教え上手な祖母に教わったとは言っても中学生のころの話だ。今は全く縫物などしていない。私が不安がっていると、祖母はいつもの優しい笑顔を浮かべる。
「あなたなら大丈夫。だって、私の孫だもの」
私は祖母のその言葉に弱い。そう言われると断れない。私の尊敬する祖母にそう言われてしまっては、引き受ける他ない。
祖母から預かった鍵を取り出して、私は扉を開けた。昔から何も変わらない祖母の作業部屋。トルソーに複数のミシン、色とりどりの布と糸。憧れて一度も触ったことのない足踏みミシン。ここは祖母の聖域だった。普段はにこにこと優しい祖母だが、この部屋では人が変るようだった。真剣な眼差しで、子どもながらにこの部屋の物には手を触れてはいけない、と感じとったくらいだ。小学校高学年ころからこの部屋で祖母から裁縫を習った。祖母は教えるのが上手で、私はすぐに洋服やバッグを縫えるようになった。
布の入った棚を見て、指定のものを見つけた。白地に青の金魚柄の浴衣生地。なんでも毎年依頼のあるお得意様のらしい。
「お得意様の浴衣を私が縫って、本当に大丈夫かな……」
今更ながら不安になってくる。祖母の出来を求めている人に私なんかが作ったもので満足してもらえるんだろう。祖母に何度聞いても「大丈夫」としか言ってくれない。祖母のことを信じたいが、本当に大丈夫なのか心配になってくる。たとう紙できれいに包んである生地が、裁断が終わっているということだけが救いだった。しばらく生地を見つめた後、私は「よしっ」と気合を入れて生地を手にとった。
「おい」
いつの間に作業部屋の中にいたのか。ひとりだと思っていた私はぎょっとして顔をあげた。私と同じくらいの年齢の青年が、私をじっと見つめている。一体、いつ部屋の中に入ったのだろうか。扉が開いた音はしただろうか。心臓が全力疾走した後のように早鐘を打っている。青年は私と浴衣を交互に見ている。そこで、私は気が付いた。この人が祖母に依頼をした『お得意様』なのだと。
「えっと、ですね……」
私は祖母が入院していること、祖母に頼まれて私が浴衣を縫うことになったと伝えた。しどろもどろになんとか説明を終える。意外にも青年は怒ることもなく、静かに私の話を聞いていた。そして、私に条件を出した。それは、浴衣を作る時に使用するのは祖母の作業部屋にある道具だけ、ということ。不思議な条件に私は首を傾げたが、お得意様のご要望ならお答えしなくてはならない。私はこくりと頷いた。
七月が終わるまで、一週間ほど。本当は祖母の家に泊まりたかったのだが、両親から夜は家に帰るようにと言われている。持ち帰って作業ができないとなると、かなり時間が少ない。まずは浴衣の作り方から調べなくてはいけないというのに、作業できない時間があるということに私はかなり焦っていた。
本を見ながらの作業は大変だった。祖母が隣にいて指導してくれている時とは大違いで時間がかかるし、何回も縫い間違えてしまっている。穴だらけになったらどうしようと、若干泣きながら糸をほどいていると、手元に影が落ちた。
「なぜ、解いている?」
はっとして顔をあげるとお得意様の青年が隣に立って、私の手元を覗いていた。青年はいつも突然この部屋に現れては、姿を消す。最初のころこそ、驚きはしたが、人ではない不思議な存在なのかもしれないと思うと腑に落ちた。祖母の家は神社が近い。この辺りにはそういった不思議な話が語り継がれている。祖母は不思議な話をしてくれる度に「見守ってくれているのよ」と言って優しく頭を撫でてくれた。
少し間違えてしまって、と視線を落として小さな声で伝えると、青年は何も言わずに、私の頭に触れた。撫でたとは言えないくらいに一瞬で、私は思わず顔をあげる。そこにはもう青年の姿はなかった。けれど、励ましてくれたように感じて、私は気合を入れ直した。
そして、七月最終日がやってきた。
「なんとか、間に合った……!」
「ぎりぎりだったな」
精魂尽き果てて作業机に突っ伏す私を見て、ため息交じりに青年は口を開いた。青年は八月一日から三日間催される神社のお祭りに行くために新しい浴衣が欲しかったらしい。だから、七月中にという依頼だったのか、というのは青年との会話の中で発覚した。私は出来上がったばかりの浴衣を青年に渡す。青年は受け取った浴衣を穴が開くほどにじっと見つめる。ぽつりと「粗いな」と言った。その言葉に私は唇を噛み締める。
「だが、上出来だろう」
初めて青年が褒めるようにそう口にした。この作業部屋に現れる度に「間に合うのか?」と怪訝な顔をしていたとは思えない、優しい言葉に思わず目が熱くなる。涙をこぼさまいと思わず下を向く。
「うん。悪くないな。想いがこもっている」
ぱっと顔をあげると、私の前には白地に紺色の金魚柄の浴衣を着た青年が経っていた。金色の帯がよく映えて青年にとてもよく似合っていた。いつの間に着替えたのだろう、と疑問が浮かぶ。だが、この青年ならばそんなこと造作もないのだろう。
「来年は花火柄がいい」
一拍置いて、依頼を受けたことに気が付いた。一年後の依頼に思わず目を見開いた。私はにっこりと笑顔で口を開く。
「はい! 承りました!」
久々に縫物をした私は、昔感じていた楽しさを思い出していた。その反面、拙い技術に悔しくて必死に涙をこらえていた。なんで、こんなにも好きな気持ちを忘れていたんだろう、と思わずにはいられない。今なら何にだって挑戦できる気がしていた。
私は家に帰ると、両親に「大学へは行かない」と宣言した。そして、「服飾専門学校に行きたい」と告げた。両親は顔を見合わせて驚いていたが、私は決めたのだ。祖母のようになりたい、と。
高校を卒業した私は祖母の家に引っ越した。そして、服飾専門学校に通いながら祖母に弟子入りした。退院した祖母は時間があると、いろいろなことを教えてくれる。今日も作業部屋にこもっていると、声が聞こえた。
「浴衣は順調か?」
見覚えのある顔の青年が作業部屋に現れた。私はにっこりと笑顔で答える。
「もちろん。想いを込めてお作りします」
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