『坂の途中の家』というドラマを見た
事実は見た人の数だけあるが、真実は当事者ひとりの体験の中にしかないと、本で読んだことがある。
『坂の途中の家』では、物事は、見る人や方向、性差によって様子が変化していくものであるということがわかりやすく描かれていて、物事の変容性と、それに振り回される己の弱さを再確認することができたし、より深く、慎重に、世界を見つめていきたいと思った。
この作品では、裁判員制度/母性/普通とは何か/世間体/毒親/支配/アルコール依存性 など、様々なテーマを扱っているが、私はその中でも、物事の変容性と人間との関係について学びを得られたなと思う。
思考は日々変化していくものだが、誰かのひとことで意見を変えてしまったり、誰かの行動で自分を恥ずかしく思ってしまったり、そういった必要のない変化をしてしまっていた自分の弱さを恥じるとともに、誰しもそのような弱さや脆さを抱えているという事実に安心した(もちろん、社会で生き抜くために必要なスキルであったりもするので、一概に悪いとは言えない)。
私は俗に言う“社会のレール”から外れた人生を送っているから、いい大学に行っていい会社に就職して、いいところで結婚式を挙げていいマンションに住んで……という、私のような人間からすると強迫観念とも思える価値観を理解することができないが、世の中には、そのような価値観に縛られたり苦しめられている人がたくさん存在するということは知ってる。
理解することと、知ることは別。
いい大学に行きたい人は行けばいいし、いいところに住みたい人は住めばいいと思う。けれど、そうでなきゃいけない、そうあるべき、という思考は不健全であると思う。
その一方で、そうしなければ生きることのできない環境に置かれている人たちがいることも知っている。
「女は男にはよくわからないことで悩むじゃないですか」というセリフが印象に残っている(一言一句正確ではないかもしれない)。
私は生物学的にも、そして性自認も女性であり、男性的な心理や考えを理解することはできない。
女性とか男性とか関係なく、人間である以上、価値観のズレや受け取り方の違いで拗れていくものはたくさんあるけれど、男女間になるとそれが顕著になるのかもしれないと思った。
(書いていて、異性間での恋愛を前提とした文脈だな……と思ってしまったので、もっと考えることにする)
人は、自らが経験したことのないことを想像することはできるが、理解することはできない。そしてその想像も、想像の域を出ることは決してない。
女性にあって男性にないもの、男性にあって女性にないもの。自分にあって他人にないもの。自分の視点だけで物事を決めつける行為は危険である。
エコーチェンバーという言葉がある。
Googleで検索すると、AIがこう解説してくれた。
自分の視点だけで物事を決めつける行為は危険だが、閉じたコミュニティ内で思考や情報を留めておく行為も、同じくらいの危険性を孕んでいると思っている。
だからこそ、第三者への相談、第三者からの介入が大事になってくる。
間違いを犯さない人間などいない。
救いを受け止めるためには強さが必要だが、救いを求めている状況のとき、たいてい人は弱っている。救いの手や言葉を拒絶してしまうことも少なくはないだろう。
人は孤独なまま生きることはできない。
「自分は一人の時間が必要だ」と主張する人もいるけれど、それも誰かと過ごす時間があってのこと。そして、誰かと過ごすことが必ずしも孤独からの脱出につながるわけではない。誰かがそばにいたとしても、孤独を感じてしまう場面もある。
孤独と、救いの手をとることのできない弱さと、それによって加速する孤独。その結果が罪となることはめずらしいことではない。
事件を起こしてしまった人間と私たちの人生は、地続きである。いつ誰がどんなきっかけで罪を犯してしまうか、または被害者になってしまうか、それは誰にもわからない。
人間は誰しも“承認”を求めている。
社会に、誰かに認められているというその実感が、人をかたちづくるのだと思う。
実際に作中でも、敵だらけ(主人公の主観であり、実際にはそうではなかったりもする)の人間関係のなかで、唯一承認の態度を示してくれた人物の言うことは素直に聞き入れているように感じた。
考えること、向きあうこと、頼ることが救いへの一歩だと思う。人間の感情は複雑であり、単純でもある。
思考には労力がいる。
向きあうことには、苦痛が伴う。
創作は、「考えること」の手助けをしてくれる。
今回は映像でこの作品を楽しんだが、言葉でも学びたい。次は原作小説を読もうかな。