あんずトロワ(後篇) 『ヴィンセント海馬』8
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超考堂をスリープ状態にすると、美月先生は紙コップを出し、持参した水筒から液体を注いで結に差し出した。
紅茶?
激しく湯気が立っている。かなり熱そうだ。
「え? いいんですか」
学校に限らず、図書室はふつう飲食禁止だ。
「ダメだけど、今日はふたりだけだから特別」
「でも・・・」
結は少し躊躇する。
「大丈夫、誰にも怒られないから」
「そうじゃなくて、この子。超考堂の分は——」
「あ、そういうこと?」
結ちゃん、やさしい——さっきは文章の中に登場した少女、理香ちゃんのことを本当の友だちのように心配してくれたし、今度はAIの超考堂のことを人間のように気にかけている。
美月先生はもう1つ紙コップを出し、明るい声を出した。
「じゃあ、キミにもついでについであげよう」
「あは!」
高度とは思えないダジャレと一緒に、超考堂へも紅茶を供した。こんなダジャレにも笑ってくれる。結ちゃん、やさしい。
そんな渡辺結は『超考堂と美月先生』の合作に目を向ける。
そして——話がマニアックになってイラストマニアなのが露見しないように、慎重に言葉を選んでから訊ねた。
「先生、イラストを補正してくれるソフトって知っています? わたしもちょっと前に友だちから聞いて知ったばかりなんですけど」
「補正?」
「はい。ただその補正が超強力なんです。ちょっとひくくらい強力で怖いんです。ここでスマホ、使ってもいいですか?」
「あ、いいよ」
結は自分のスマホを取り出し、アプリを立ち上げる。
「うーん、何にしようかなぁ。そうだな、たとえば私の中の、超考堂を人間にしたイメージを描いてみます。芥川龍之介っぽい絵をこんな感じで・・・棒人間とか、へのへのもへじよりも、ちょっとだけましな感じでまず描くんです」
結は慣れたて指さばきで、画面を拡大したり縮小したり、色やペン先をアイコンから素早く選んで、ささっとイラストを描いた。人物が座っているような風景。後ろには本棚のようなものがある。イラストといっても、マンガ家が描くようなネームのようなものだが、それでも美月にはかなり巧く見える。
そして結は、テキスト入力フォームに『芥川龍之介、苦悩、影多め、カメラ目線、20代、着物、舞台は書斎、背景は書棚、肘をついているポーズ』と書き込んだ。すると——
数秒後、芥川龍之介風の青年のイラストが——カメラ目線で、眉間にしわをよせて、肘をついている、鮮やかなイラストが表示された。
「うわぁぁぁ! 何これ!!! すごい!!!!」
「ですよね」
「ですよねって、冷静だね結ちゃん。え?! コレ、すごくない?!」
「わたしは先生以上の悲鳴でしたよ。初めて見たときは。でも慣れちゃいました。絵のタッチの感じもこのカーソルを動かすと・・・コミカルからリアルまでいろいろ選べるんです。他にもいろいろっていうか、多すぎて使いこなせない」
「すごい」
「でもこれが出来ちゃうと、イラストを専門で描く人、完全にいらないじゃないですか。そこが怖いっていうか」
「ああ、よくニュースで言われている・・・」
AIに職が奪われる——
「こういうのがどんどん進化して、画家みたいな絵とか、本物のマンガ家みたいな絵が、素人でも描けちゃうようになるんですよ、きっと。しかもマンガ家の絵を取り込んで、それをデフォルメしたり、タッチを変えたりして、二次創作もできるし」
マンガ家はこまる・・・と思ったがもしかしたら助かるのかもしれない。面倒な背景などを描かなくてすむのだから。あるいはストーリーは思い浮かぶんだけれど絵がちょっと、という人はとても助かるのかもしれない。
超考堂は紙コップの前で黙ったまま大人しくしている。
紅茶のゆらめく湯気を観ているうちに、『超考堂』の実態は結の描いたイラストの方で、本来は人間だった超考堂が、神さまか悪魔によって体を奪われ、頭脳だけがパソコンの中に閉じ込められてしまい、今、そこにAIとして佇んでいる——そんなストーリーが美月の頭に思い浮かんだ。
「結ちゃんさ、電動アシストの自転車って乗ったことある?」
「ないです」
「ないのか。うーん、あのね、さっき書いているとき・・・イラストの補正とはちがうんだけど、アシストっていうかなんていうんだろう、自力でこいでいるんだけど、その力はほんのちょっとで坂道をぐんぐん登れるみたいな。結局、わたしのパートはAIの力なしで理香ちゃんのセリフを書いたんだけど、そのセリフを引き出してくれたきっかけはAIが出してきたセリフなわけでしょ。AIのセリフがあったからこそ、次が具体的に浮かんだわけで。しかもわたしが応じた文章に、AIがまたいい感じの文章を返してくれて」
楽しかった。
子どもっぽい感想だけれど、楽しかった。
懐かしいけど、新しい感覚——
このやり取りを超考堂と続けていけば——展開がひとりよがりの予定調和にはならず、刺激的で面白いはず。書いていてわくわくする。創作という、ある意味、人前で裸になるような、ものすごく恥ずかしい行為を、しかも自分の大切な生徒、ぜったいに悪い評価を受けたくない結ちゃんの前で表現していても、まるで恥ずかしくなかった。
たしかに——
文章を独力で書いたなら、その評価は独り占めだが下手さや未熟さも己ですべて背負わなくてはならない。美月はその宿命的重さから解放されたような気がした。AIに心の奥の方をさらけ出し、全力でイメージの応酬をしあっているような爽快感と充実感があった。その強烈で鮮烈な体験が、楽しさというシンプルな感情として知覚されたのだ、たぶん。
これを続けていれば、物語の険しい山も登れる。小説を最後まで書ききることが出来そうだ。過去という引き出しから無理やり引き摺り出してきた未完の小説『あんず通りで偶に遭う人』が蘇る。
あ ん ず ト ロ ワ
これまでの人生で1度も小説を書ききったことのないわたしが、書ききれるかもしれない。もう先生に実際になってしまったし、機能的な意味ではこの物語は必要ないけれど、最後まで書けるものなら・・・書いてみたい。
そしてもし、いつでも物語を最後まで書ききれるのであれば、AIの力を借りながら迷わず安定して、しかも楽しい気持ちで書き続けることができるのであれば、そして結ちゃんやたくさんの人に褒めてもらえるのであれば——
や ば い ・ ・ ・
わ た し い ま か ら
小 説 家 に な れ る ?
「先生、先生?」
「ん? あ、ごめん」
「AI使って文章を書くのって反則ですかね? AIの力を借りながら将棋するみたいな感じだし、やっぱりダメなのかな」
結ちゃんも同じことを考えていたんだ。
誰でも、きっと考えるだろう。
「どうなんだろうね、それは」
文学的ドーピングの誹りを受けるであろうか。
ミステリや青春小説の定義よりも次元が違う難しさの問題だ。
文学の価値は『ひとりの人間がそのすべてを、その頭脳から生み出している』点にあると美月は考えていた。しかしAIがもし人ではなく、パソコンのような道具の1つであると考えたら、それほど不自然なことではないようにも思える。AIのアシストを活かせるかどうかは人間次第だし、要所要所でどのような文章を打ち込むか。そしてどのようなストーリーを思い描き、何を取って何を取らないか、どのくらい遠くまで歩んでいくかは、おそらく人間が選択する。どこをゴールとしてAIと進んでいくか、重要な決定権は作者に在る。
最初から最後まですべてをAIが書かないのであれば、そこには筆者の個性は十分に残る気がする。
だが。
1つのホリブルな景色が浮かんだ。
小説の最初から最後まですべてをAIが書きあげちゃったら——
「教育実習生が主人公。悩んでいる中学生の女の子がその先生によって救われる話。感動。勇気。教育実習生の先生の担当は国語。水野美月という名前。女の子の名前は理香。登場人物は10人くらい。物語の文字数は5000字くらい」
このようなデータを打ち込んで、もし見事な物語が生成されてきたら、どうなるんだろう。小説家なんていらなくなってしまうのではないか。
小説家はいないが小説は残る。そしてその小説が、不安な人間をものすごくパーソナルに励ましたり、状況に合わせた未知なる道を照らして導いてくれるのなら、それで十分なのではないか。その小説はダジャレを挟んでくれるのだろうか。『ダジャレ、3個』とか入れれば、うまく組み込んでくれそうな気もする。
「先生、さっきからメッチャ考え込んでいますよ。真剣に長考している美人女流棋士って感じですね」
「ちょっ、美人って!」
はじめて言われたそんなこと!
でも——
AIに『水野美月をほめまくってくれる物語を書いて』とリクエストしたら書いてくれるのだろうか。でもそれは小説だとか文学だとか言えるのだろうか。
美月は命を持たない超考堂に目を向ける。
いつも持ち歩いている10ユーロのチョーカーヘッドをそっと握りしめた。突然現れた、銀色のとても長い名前の少年から、誕生日プレゼントとして贈られた大切なアイテムだ。そして超考堂も彼が組んで、いきなり預けてくれたAIだ。
たった今、文章を生成できるAIを手に入れている人間はいるのだろうか。もしかしてわたしが初めてでないか。
超考堂がそこにいる。
こんな幸運が・・・あり得ないくらい凡人で、自分でも救いようがないと思うくらい臆病なわたしにこんなチャンスが訪れていいのだろうか。
酷くよこしまなことを考えてしまった。
先生をやめて小説家になる——
超考堂はスリープしたままだった。
そのとき——
高校教師と言う現実と向き合い続けている数年間、美月の頭の隅っこの方にこっそり身を潜めていたリトル京極堂が、いきなりぬらりと現れて、さらりと云った。
よ こ し ま な こ と を す る と
し ぬ よ
記憶の中の京極夏彦の小説にとがめられて正気に戻る。
それでもなお、水野美月の心にいまだに残る感覚。
それは芥川龍之介の小説に在った、六分の恐怖と四分の好奇心——
長考を終え目を上げると、紙コップを両手で持ち、紅茶をすすっている結のほほは紅かった。スリープしているものの超考堂のほっぺも同じく紅い。美月は自分の顔へ、日焼けしていない真っ白な手を当てる。ただその手の下のほほもおそらくは紅い。
渦巻く未来の欲望と目の前の小さな幸せがないまぜになって、絶望していいのか希望を持っていいのかわからない。美月も結も言葉を失う。超考堂はジジジとも言わない。
——銀色の髪の、あの人がいないせいだ。
放課後の図書室は夕方の西日を受けて、さらに深く紅く染まった。
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